木彫家 髙橋貞夫 第1章 ―農民美術、木っ端人形から芸術家へー
髙橋貞夫さんは、大正8年より洋画家山本鼎の提唱で始まった農民美術を源流に、信州に暮らしなが …
Shinano Omachi Culture & Art
本郷毅史さんは、川の水源域を撮り続けている写真家です。その作品は、原始感覚美術祭や、足利市立美術館、福島県立博物館の企画展など、多数の展覧会で発表されています。その静謐な表現に至るまでの、アフリカ最南端である喜望峰からの自転車での旅のことや、水源域での特別な瞬間について、お話を伺いました。
21歳から24歳まで、3年半かけて喜望峰から日本まで自転車で帰るという旅をしました。旅の途中もずっと写真を撮っていましたが、旅の記録という感じでした。写真を本格的に撮り始めたのは、十年ほど前からです。当時は東京に住んでいたのですが、東京の水源を撮って、その光景を持って帰れば、東京に住んでいる人に喜んでもらえるかなと思い、撮り始めました。
ある日世界地図を見ていて「一番遠い場所はどこだろう」と思ったことが、喜望峰からの旅のきっかけでした。
世界地図を見て、一番遠い場所は、アフリカか南米の最南端だったけど、アフリカの方がより遠い気がして、そういう遠い場所にとりあえず行ってしまって、そこから日本に帰れば、面白いだろうなと思って、それがきっかけで始まりました。だから、一番遠い場所から、自分が生まれ育った場所に自転車で帰るって言うのが、テーマだった感じです。
それで、飛行機でケープタウンに飛んで、喜望峰から浜松の自宅まで3年5ヶ月かけて、4万5千キロくらい走って帰ってきました。自分が生まれ育った場所に帰りたいのか帰りたくないのか、自分がどこに所属しているのか、所属したいのか、そういういろいろな想いが走る線に表れると思っていました。帰りたくなくなれば遠回りしたり逆方向に行くし、帰りたければ最短距離で走るし、想いが世界地図の上に線になって表れるのは面白いなと思いました。それで、結果的には2年の予定が3年半になりました。だいぶ長引いたけれど、おおむね帰る方向には向かっていて、それで、どうにか帰ってきました。
帰ってきてからは、山登りや沢登りばっかりやっていました。特に沢登りが好きでした。そして、大学の卒業を控えていて、自分をどう社会に所属させるんだろうと悩んでいるときに、あそこの光景を持って帰って、見てもらったら喜んでもらえると思って、喜んでもらえることなら仕事になるだろうと思って、水源の撮影を始めて、今に至ってます。
当時は東京に住んでいたから、東京の水源域である荒川とか、多摩川とか、利根川などの源流部に行って、撮影をしていました。
子どもの頃は、よく母から冒険ものの本を読み聞かせられていました。『十五少年漂流記』とか、『果てしない物語』とか、『ロビンソンクルーソー』などを読み聞かせられたりしてたから、大きくなったら旅に出るんだろうと自然と思っていました。そして中学の頃、自転車旅行をやったことがある母の知り合いに影響を受けて、兄の通学に使ってる自転車を借りて、友だちを誘って、中学生だけ三人で、橋の下で野宿しながら4泊5日で浜松から富士山に行って帰ってきたというのが、一番始まりの旅でした。なかなかあれが印象深かったんだと思います。自転車の旅がどんどん世界を広げてくれた感じでした。その次に中学三年生のときに、伊豆半島と富士山を一週間ぐらいかけて自転車で一人で旅をしました。はじめての一人旅でした。それから高校一年で、北海道を3週間ぐらい一人で旅して、高二の時にカナダを一ヶ月ちょっとかけて自転車で縦断しました。そのようにエスカレートしていって、大学に入って、次にもっと大きなことをと思った時に、喜望峰からの旅を思いつきました。そしてその後水源をとり始め、いろいろな人の縁で、今大町にいます。
最近は福島を流れている川の源流部によく行っています。
震災後に福島県立博物館が事務局になって立ち上がった、震災原発事故を文化芸術で伝える「はま・なか・あいづ文化連携プロジェクト」に、福島の水源を撮りませんかと声をかけていただいて参加しています。阿武隈川や阿賀川、只見川などの源流部に行き撮影して、福島県内や、県外のいろいろな場所に、プロジェクトの成果展として展示してます。2015年の夏には大町でも成果展をさせていただきました。
阿武隈川の源流部は、ほんとうに深い森で、そこでは千年変わらないかのように、水が流れていました。福島はとても大変なことが起こってしまった土地だけど、何が起こっても起きなくても、山奥では変わらず水は流れているという事実を見ることができたのはとても良かったです。そういう自然の、人間に対する無関心さに、ときに救われるような気がします。
沢登りをやるので、登山道からも離れてしまって、沢沿いを歩いていきます。沢登り用の靴を履いて、ハーネスとかロープとか、ヘルメットを持って、基本的には一人で行って、夜になれば沢沿いに泊まって焚き火をして、何泊かしながら水源まで、時には崖をよじ登ったり、薮をこいだりしながら行きます。それがとても楽しくて、そういう所に行くのが好きです。そういう所は、普段はなかなか行けない場所で、人間が住んでる社会の、もう一歩奥にある、ある種の聖域みたいなところだと思っています。そういう場所に年に何回か行って、帰ってくる。それは僕にとってとても特別な時間です。
谷の奥の、深い森の中に行って、一人で夜を明かすことはとりわけ特別な感じがします。異界の中の異界に行く感じがします。よく怖くないのかって言われるけど、怖さはありません。むしろ心が深いところから解放されるような心地よさを感じています。
そういう場所に行くと、自分が、一旦動物たちと同じ地平に立てるような気がします。幻想なのかもしれませんが、人間もまた動物なんだと思える場所で、動物たちと同じ地平に立つことには、深い喜びがあります。そこでもし何かあったら、例えば、カモシカだって、足を折ったらほぼ致命的だと思うけれど、そういう場所に行って、帰ってくる。それは禊のような行為なのかもしれません。ずっとあちら側にいる訳には行かないので、行って帰ってくるというのを繰り返しています。
数年後に文化庁の移設が決定した京都の芸術拠点、京都芸術センターで開催された、日本各地で多彩に展開されているアーティスト・イン・レジデンスを考察するシンポジウムに出席してきました。
アーティストが一定期間、普段の創作拠点とは別の地域・国に滞在すること、またそのための活動であるアーティスト・イン・レジデンスプログラムは、創作活動の場の拡大、アーティストと市民とが交流する機会の創出、地域の魅力を再発見することなど、そのプロセスがもたらす波及効果は多方面にわたると考えられます。そして、シンポジウムではアーティスト・イン・レジデンスとネットワークに焦点をあてています。人が移動することが前提となるアーティスト・イン・レジデンスでおのずと網の目のように構築されるネットワークに注目し、そんなネットワークをどのように整備し、活用していくことができるのか。またそのネットワークをどのように地域に還元できるのか。世界各地で活動するアーティストと、ネットワークを活用し活動を展開するアートセンター等から登壇者を招き、2部構成で開催されました。
第二部「ネットワークの活用」は、文化庁文化芸術創造都市振興室長の佐々木雅幸さんがモデレーターを務め、美術館、レジデンスネットワーク、劇場、アートセンター等の様々な分野で活躍する女性ディレクターが集結し、それぞれの仕事の紹介と、これからのレジデンスの可能性について語った。
最初にプレゼンターは、中国の成都市にあるA4美術館のディレクターを務めるソンさん。
孙莉〈Sunny Sun〉(ソン リ)
キュレーター、LUXELAKES·A4 Art Museum(旧A4 Contemporary Arts Center)アートディレクター。2007年より現代美術の展覧会や関連する教育普及事業等を企画する。2008年にA4 Contemporary Arts Centerを設立。中国でも数少ない非営利の芸術施設として、芸術理論、アートプロジェクト、現代美術教育に力を入れる。これまでに若手アーティストを中心として30以上の展覧会を企画、若手アーティストの創作をサポートしている。
A4美術館は、国際的な美術展の他、作家の研究機関としても活動しており、アーティスト・イン・レジデンスプログラムや、若手作家の実験的な活動支援なども行っている。施設としては、展覧会場、レジデンススタジオの他、レクチャーホール、図書館、カフェの他、美術教育センターや、マルチメディアプレゼンテーションホールなども併設する、様々な可能性に開かれたアートの拠点である。今回のシンポジウムが行われた京都芸術センターとLUXELAKES·A4 Art Museumは本年度より連携し、交流プログラムを実施する予定だそうだ。アートの交流プログラムとして、中国と日本の美術館が連携し、作家が行き来できる事は、文化交流としてアーティスト・イン・レジデンスが他に類のない可能性を秘めている事だと改めて感じた。
次にプレゼンテーションしたのは、僕も参加しているAIRネットワーク準備会の事務局長を務める日沼さん。
日沼禎子(ひぬま ていこ)
女子美術大学准教授、AIRネットワーク準備会事務局長。1999年から国際芸術センター青森設立準備室、2011年まで同学芸員を務め、アーティスト・イン・レジデンスを中心としたアーティスト支援、プロジェクト、展覧会を多数企画、運営する。さいたまトリエンナーレ2016ではプロジェクトディレクターを務めた。2013年より陸前高田AIRプログラムディレクター。
日沼さんに初めて会ったのは、僕があさひAIRを始める事になって、いろいろなAIRの勉強会に参加していた時だった。その時、陸前高田のAIRプログラムを見て、特定の土地で作品制作をする事の意義を改めて考えさせられたのを覚えている。移り行く時代の中で、その場所に存在する大切な何かを、アーティストでなければできない形で顕在化すること。東日本大震災の後、数字や言葉では語り切れない空気感がアートによって表現された時、そこにレジデンスプログラムがあったという事の意義は計り知れない。
グローバリズムの中で、それぞれの地域がそれぞれの在り方を問う時代に、AIRが何をもたらすのか。日沼さんは、それぞれの場所の特異性を顕在化する方法としてアートを捉え、それがどの様に運営されているのかを考えるため、日本全国のレジデンス施設をネットワーク化するための活動も行っている。AIRネットワークは、僕のような初心者からすれば、レジデンスを運営する先輩に出会い、学ぶことができる場所だ。そして、多様化するアーティスト・イン・レジデンスというシステム自体を段階的に拡張する事にも、貢献するのではないかと思う。
3人目のプレゼンターは、神戸で演劇系のレジデンス施設、Dance boxを運営する横堀さん。
横堀ふみ(よこぼり ふみ)
NPO法人DANCE BOXプログラムディレクター。神戸・新長田在住。1999年よりDANCE BOXに関わる。劇場Art Theater dB神戸を拠点に、滞在制作を経て上演する流れを確立し、ダンスを中心としたプログラム展開を行なう。同時に、アジアの様々な地域をルーツにもつ多文化が混在する新長田にて、独自のアジアのプログラム展開を志向する。
ちょうど、今(1月7日―2月6日)Dance Boxに滞在しているキム・ジュトク氏は、新長田の在日コリアンコミュニティと、国内ダンス留学@神戸の参加者と一緒にコンテンポラリーダンス作品をつくりあげているそうだ。横堀さんは、地域のリソースの上につくる作品と、純粋にアーティスティックな製作には差があるかもしれないけれど、それの2つを分けずにプログラム構築をしていきたい、と言っていた。それはレジデンスのコーディネーターとしてすごく共感する挑戦だ。そして、ダンスボックスがコンテンポラリーダンスを中心に活動する理由に、地域でアートをする事への共感を感じざる得ない。
「ダンスは様々なアートのなかで、<身体>で、あるいは<身体>を表現することが際立った特性になっています。元来、神への捧げものとして踊られていたダンスが、やがて劇場のなかで観客に向かって踊られるようになり、近代舞踊史がつづられてきました。
高度に情報化された現代社会に生きる私たちの身体は、増々孤立化しているようにみえます。劇場でダンスを観ることで、私たちはどれほど、その孤独から解放されるのでしょうか。生身の身体が出会う<場>として、どのような交感がおこるのでしょうか。」
純粋に、ダンスのもつ力、アートのもつ力を信じて、世界をよくしていく事。そのために「良い作品、良い作家」を自分の住んでいる地域に呼ぶための、アーティスト・イン・レジデンスという可能性を感じた。
そして最後にプレゼンしたのは、京都芸術センターの山本さん。
山本麻友美(やまもと まゆみ)
京都芸術センター チーフプログラムディレクター。主に京都芸術センター事業の統括と「東アジア文化都市2017京都」コア期間事業のキュレーションを担当。専門は現代美術史、メディアアート論。2000年の開館時からアート・コーディネーターとして伝統芸能やアーティスト・イン・レジデンス等の事業を担当。京都芸術センターとして多様な新しい表現を積極的に支援するプログラムを実施している。
山本さんが最初に言っていて面白いなぁと思ったのは、過去18年間に、京都芸術センターにレジデンスに来た作家たちの事。世界50か国以上からレジデンスに参加したけれど、アーティストの国籍は、生まれた場所、所属する場所、住んでいる場所がバラバラな事も多く、資料として意味がない、と言っていた。日本に住んでいるとわかりにくい事実だけれど、世界はもうすでにかなり混ざり合っていて、特にアーティストという職業に就くような人たちは、国という概念から自由になりつつあるのではないかと思う。
また、京都芸術センターらしい提案だと思ったのは、京都に存在している多くのマイクロレジデンス的な施設をまとめて、海外からの問い合わせを一手に引き受ける事のできる組織として、複数団体合同で立ち上げることが可能であれば、面白いという話だった。確かに、海外への広報にかける労力と効果の両面から見て、複数団体合同で実施するAIRプラットフォームは、各地域であっていいのではないかと思う。
4名の女性ディレクターはそれぞれ、レジデンス施設の社会的な意義を、まったく別の視点から見せてくれたように思う。そして最後に、文化庁文化芸術創造都市振興室長として創造都市政策を牽引する佐々木雅幸さんが、「レジデンスを継続する力が、大切」と言っていた。大町には、メンドシーノ国際交流事業として、1980年代から続く工芸系の芸術文化交流事業がある。2008年より本格的に復活し、隔年で作家たちが大町とメンドシーノを行き来して展覧会を開催し始め、2017年に10年目の節目を迎える。グローバルとローカルを橋渡しする現場として、2017年のメンドシーノ国際交流展にも、ぜひ注目してほしい。
メンドシーノ国際交流 http://www13.plala.or.jp/masamiyo/mendocino.html
アーティスト・イン・レジデンス シンポジウム2017
日時:2017年2月4日 (土) 13:30-17:00
会場:京都芸術センター 講堂
第ニ部:ディスカッション(15:30-17:00)「ネットワークの活用」
《登壇者》
孙莉(A4 Art Museumディレクター)
日沼禎子(女子美術大学准教授、陸前高田AIRプログラムディレクター)
横堀ふみ(NPO法人DANCE BOXプログラムディレクター)
山本麻友美(京都芸術センターチーフプログラムディレクター)
《モデレーター》
佐々木雅幸(文化庁文化芸術創造都市振興室長)
主催:京都市、京都芸術センター
共催:特別協力:奈良県立大学
後援:文化庁、関西広域連合
URL:http://www.kac.or.jp
問合せ先:京都芸術センター
TEL:075-213-1000
E-mail:info@kac.or.jp
数年後に文化庁の移設が決定した京都の芸術拠点、京都芸術センターで開催された、日本各地で多彩 …
青島左門さんは、2017年に大町市で開催される北アルプス国際芸術祭の招待作家です。若山美術館、志賀高原ロマン美術館での個展など、現代美術家として絵画、彫刻、コンセプチュアルアート、インスタレーションなど幅広い領域で美術表現をする傍ら、絵本作家として「ほわほわ」や「おつきさま すーやすや」などを福音館書店から発行。また、日本を代表する舞踏家、大野一雄氏、大野慶人氏に師事し舞台芸術活動を行うなど、マルチな経歴をもつ左門さんに、創作の原点についてお話を伺いました。
現代美術の歴史を考える時、やはり重要なのはデュシャン※1だと思います。コンセプチュアル・アート※2という枠組みをゼロから作った事が革新的ですね。レディメイド※3、物を選ぶっていう行為でアートを成立させているんですけど、その様式を作り出したこと自体がアートだと思います。調べていくと「階段を下りる裸婦」がすでにセンセーショナルで、ヨーロッパのほかのアートと比べても最も謎で、理解できないものだった、という事じゃないでしょうか。「階段を降りる裸婦」があったから、レディメイドの作品ができたんじゃないかと。そして重要なことは、デュシャンの「泉」は非常にわかりやすい。美術なのに便器であるというギャップがわかりやすい。あ、わかりやすいというより、インパクトがある、と言う方がいいかもしれません。誰に対してもインパクトがある。
小倉 正史さんという美術評論家に教えてもらったことで、現代美術の始まりは絵の具のチューブが生まれた事だとおっしゃっていました。絵の具チューブという既製品を使うことで、色を「創る」という行為が色を「選ぶ」行為に変化していった。その「選ぶ」という行為はデュシャンのレディメイドの行為とよく似ているんです。そういう意味で既製品とアートの関係を突き詰めていくと、産業革命というのは美術の大きな転換期だったのだと思います。他方で現代美術の歴史を一般化することはできないと思っていて、それぞれの地域の文化史があって、それも含めて考えていく視点が重要だと思います。
現代の潮流が、これまでのようにアメリカが経済的にも軍事的にも圧倒的な力を持っていた時代から、中国も台頭して、ヨーロッパもEUになって、世界が均質化してきていると思います。だからこそ、それぞれの地域における文化史が必然的に重要になってくる。日本の場合は、主体的に文化史を創ろうとする動きがそんなに強くないですが、文化を受け入れる側というか、おそらくそういう地理的な条件もあるんだと思います。
でも、日本にも革新的な美術家がいて、風神雷神を描いた俵屋宗達は革新的だと思います。扇に絵付けをして、絵を売っていました。その宗達がつくりだした空間性を北斎が学んだのだと思います。それがジャポニズムとして印象派に影響を与えました。そういう風に地域の文化史が、世界の美術史につながっている。印象派って日本では有名ですが、美術史の中ではアウトサイダーだったんです。
日本では結構アートとか現代美術に拒否感を持っている人が多いかもしれないですが、実は日本が印象派の価値を見出して集めたことで、印象派が注目されたことは、世界の現代美術史の中で重要です。
世界の中で、日本は湿潤な気候ですが、印象派を日本人が好きなのはこの風土が影響を与えていると思っていて、中国の山水画の中でも昔から、南宗画※4を大切にしてきたことと同じように、日本人は昔から幻想的な印象の絵を好んできました。風土があいまいな日本人の文化や性格を作ってきたと言えるかもしれません。視覚的な芸術はこのような文化の歴史を伝えていると思っています。
例えば、3000年前の歴史を調べようとしたとき、視覚芸術で認識される文化史って非常に大きいんです。その時代の言葉が分からなくても、直感的にこんな生活をしていたんだと、分かることがあるのではないかと思います。そのような時間や空間を越えた共感が、美術の特徴でもあり、情報の伝わりかたとして、とても有効なのだと考えています。情報は遺伝子としても伝わりますが、それ以外の情報の伝わり方が、人類の文化を特徴づけていて、本来の自然に対して謙虚である日本人の感性は、人類が長期的に地球で生活するためには大切なものだと思っています。過去の文明を知るうえで、言語もかなり影響はありますがわからない文字も出てくるので、歴史と美術の関係性はとても大事なものかもしれないですね。
大野一雄先生に学んだ事でもあるんですが※5、表現は本人、自分だけでは成立しないので、ひとりでも共感をする人がいればそれは成立する、と思います。それがまず、社会との接点を考えるときに大事なことだと思っています。
なかなかその、言葉にするのは難しいんですが、ただひたすら、存在やいのちを捉えたい、という欲求があります。彫刻する事によってそのリアリティを感じている。例えばこうやって話していても、かなり想像に頼る部分が多いじゃないですか。彫刻としてそこに物体が存在している場合は、表現行為の痕跡が確実にそこに存在しているので、検証しやすいというか。よりどころがないとあまりにも漠然としていて、捉えどころがなくなってしまうんだと思います。
信州に住んで4年目になります。もともと海の近くで生まれているので、信州は「山」、そこに尽きると思います。日本の特徴を考えた時にも、山脈、山なみを純度の高い状態で象徴的に表しているのかもしれないですね。日本の中の信州なんだな、と感じます。
―ありがとうございました。
第1章「存在のリアリティ」にもどる
※1 マルセル・デュシャン(1887-1968)
フランス生まれの美術家。ニューヨーク・ダダの中心的人物と見なされ、現代美術に決定的な影響を残した。参考
※2 コンセプチュアル・アート
アイディアやコンセプト(概念)を重要とした美術表現。参考
※3 レディ・メイド
既製品のこと。芸術の概念としてのレディ・メイドは1915年にマルセル・デュシャンによって生み出された。参考
※4 南宗画
17世紀に出版された画論『画禅室随筆』で流布した流派。禅に南北二宗があるのと同様、絵画にも南北二宗がある。王維の画法渲淡(暈し表現)から始まり、董源、巨然、米芾、米友仁、元末四大家に連なる水墨、在野の文人・士大夫の表現主義的画法を称揚した流派である。参考
※5 「おまえの踊りがいま認められなくたって、千年万年経て誰かひとりでもいいから、認めることがあるとすれば、それは成立する。しかし、永久に誰とも関係のない踊りはだめだ。」
大野一雄|稽古の言葉 , フィルムアート社