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水の生まれる町‖北アルプス山麓大町の男清水と女清水

水の生まれる町。 私たちが日々を暮らす北アルプス山麓地域は、とてもとても水の豊富な地域です 

北アルプス山麓地域の林檎‖100年のあゆみと林檎農家になる!ということ part.2

北アルプス山麓地域の林檎‖100年のあゆみと林檎農家になる!ということ part.2

「それまでなにもなかった畑に林檎が植わっててさ。『なにしててもいいけど、お前が帰ってきて林 

北アルプス山麓地域の林檎‖100年のあゆみと林檎農家になる!ということ part.1

北アルプス山麓地域の林檎‖100年のあゆみと林檎農家になる!ということ part.1

初冠雪より数日後の北アルプスは白くお化粧をしていて、真っ青な空と太陽が気持ち良い秋の日のお昼前。
私はふじ林檎の収穫が行なわれている、大町市三日町の峯村農園さんの林檎畑を訪れました。
暖かな太陽の光が目に入るもの全てを色鮮やかに照らしていて、緑が茂る林檎の木には、赤々と実る林檎が収穫を待っています。

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こんにちは。AIR MAGAZINEライターのたつみです。
大町市に林檎が伝わって、100年と13年。
いまでは大町市の農産物で米に次ぐ生産額となっている林檎。
あたりまえのように、スーパーや直売所に林檎が並び、私たちは日常的に林檎を口にしています。
今回は、北アルプス山麓地域の林檎100年のあゆみについて&林檎農家という仕事についてをテーマに、2記事にわたりお伝えしたいと思います。

林檎と苹果

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皆さんは「苹果」という字を読めるでしょうか?
これは、「へいか/ひょうか」または「りんご」と読みます。

日本の林檎は、明治以前にも地りんご/和りんご/エゾノコリンゴなどのりんごが存在していて、これらは中国を経由し渡来した小型の林檎でした。
現在食用として栽培されている林檎は明治以後、アメリカから苗木が投入され生産が始まったものです。
苹果は、中国での「りんご」を表す漢字で、古くの日本では明治政府が在来林檎と西洋林檎を区別するため

在来のりんご=林檎
西洋のりんご=苹果

と表記したそうです。
最近では「苹果」の表記はあまり見られず、私が文章で「林檎」と記載するように、在来/西洋のりんごの区別が無くなり、「林檎」は、私たちが食べている元はアメリカから持ち込まれたものを指しています。
(この後にも苹果の文字が出てくるので、苹果と林檎の違いをご理解して頂ければ幸いです)

北安曇のりんご100年のあゆみ 年表

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大町を含む北安曇(大町市/池田町/松川村)の林檎生産に係る100年の歴史を年表にまとめたので、ご覧ください。
※この年表は、大北農業協同組合/大北農協りんご生産部会発刊「北安曇のりんごのあゆみ」などを参考にし、作成しています

年号 出来事
 明治4年(1871年)  北海道開拓使次官の黒田清隆が明治政府の命を受け、アメリカから苗木七十五本を持ち帰り、勧業寮(かんぎょうりょう/農務・工務・商務の勧業を担当する官庁)試験場で試験栽培を行う
長野県/青森県などへ苗木を配布→現在の林檎のルーツ
 明治7年(1875年) 長野県の林檎栽培元年
勧業寮から林檎/なし/桃/ぶどう/杏/栗などの果樹苗木が長野県と筑摩県それぞれに配布された
→明治12年篤志家(とくしか/主に社会福祉や慈善事業に熱心な人/地元の有力者などを指すのだと推察)に苗を配布し、長野市住生地/真島村/八幡村などで栽培が始まる
筑摩県(ちくまけん)=1871年に飛騨国および信濃国中部、南部を管轄するために設置された県。現在の長野県中信地方/南信地方、岐阜県飛騨地方と中津川市の一部にあたる。1876年に信濃国が長野県に、飛騨国が岐阜県に合併されて廃止された。大町市は当時筑摩県に属していた。
 明治37年(1904年) 初めて北安曇でりんごが収穫される
 明治42年(1909年)  青森県 滋賀重昴(しがしげたか/地理学者)の講演により、大町も林檎栽培に適する気候風土であることが力説された→このことがきっかけとなり、りんご栽培の可能性を有産階級が感じることになった
 明治44年(1911年) 大町 築井玉三郎 りんご園開園
初めて栽培者が明確になり、りんご栽培が開始された
 明治末期〜大正初期(1910年代) 医師などの篤志家が原野を開墾し大規模な経営を始めた
大町 平林秀吾/常盤 清水鎮雄/平 工藤源継/腰原幸一/横澤民弥 栽培開始 
栽培技術最先端である青森県試験場の視察/青森県指導者による講習会を幾度も開催
長野県の林檎栽培技術の向上に北安曇は大貢献した
常盤に果樹/米麦試作地が設置
 大正3年(1914年) 第一次世界大戦 勃発〜18年
 大正5年(1916年) 大町 平林秀吾 2ha/常盤 清水鎮雄7ha 大規模経営を開始
築井らも面積を拡大し大正末期1925年あたりには10haの栽培面積まで広がった
 大正6年(1917年) 大町りんご組合 仁科町に設立→全国に先駆けて共同集荷/選果を始めた
翌年には名古屋の村瀬義平青果卸へ初出荷を行う/大町九日町の市に、目籠で運び販売する
 大正8年〜9年
(1919年〜1920年)
 養蚕/繭価大暴落→りんご栽培が県下に急増
大町では若林氏が一般農家で一番早くりんごを栽植する
農商務省の富永試験場長らによる講習会など当時の最高技術が投入される
昭和初期(1926年)〜 一般農家への普及は昭和初期1926年〜養蚕不況による桑園からの転換/水田減反強化が生産拡大の契機となった
 昭和5年(1930年)  昭和農業恐慌→繭価の大暴落
世界恐慌
 昭和10年(1935年)  この頃から一般農家がりんご栽培を始めるようになる
大町紡績設立
 昭和12年(1937年)  大町 大恵園(築井)/平林果樹園で動力噴霧器導入し園内に鉄管を配置
昭和14年( 1939年)   第二次世界大戦 勃発〜45年
昭和16年( 1941年)   農産物の作付統制令が交付→不急作物の禁止/食料確保の為林檎の抜根が余儀なくされ、林檎栽培が低迷
昭和22年( 1947年)  農産物の作付統制令の解除→林檎栽培の再熱
 昭和23年(1948年)  大町苹果生産組合設立
 昭和29年(1954年)  長瀬技師が着任し県下3番目の設置である王子裏共同防除(ぼうじょ/農作での病害虫などの予防と駆除)組合(固定配管)の指導にあたり、翌年には農林大臣賞を受賞
全国りんご研究大会が開催されるなど、面積200ha/生産量2,500tの全盛期であった
 昭和33年(1958年)  ふじ(東北7号)が誕生→昭和37年1962年にふじと命名                
 昭和34年(1959年)  高度成長期に突入
34年が面積のピーク263ha→昭和41年には半減し132ha
高度成長期のあおりを受け、販売競争の激化/出荷規格の厳選下/品種転換の難しさ/農薬散布の機械化などにより、資本力の乏しい農家は経営に見切りをつけたため、廃園、品目転換が進み面積は急激に減少した。
 昭和35年(1960年)  県に園芸特産課が設置され果樹係発足→果樹行政に力が入る→ふじ東北7号が初成り
果樹農業振興特別措置法発布
昭和38年(1963年)  大町市/松川村に初めてふじが導入
黒四ダム完成
 昭和39年(1964年)  常盤りんご生産組合設立
東京オリンピック
昭和41年(1966年)  大北農業協同組合発足(北安曇郡下13農協が合併)
 昭和43年(1968年)  県うまいくだもの推進事業発足
大町苹果生産組合は事務所を新築移転し(現在の中部営農センター)直売所の先駆的な事業を開始
山川市場(りんごの大暴落)→国光/紅玉の時代が終わりふじへ高接更新期へ
 昭和43年〜45年(1968年〜1970年)  スピードスプレイヤーが導入され薬剤散布も近代化が図られた
 昭和45年(1970年)  大町苹果生産組合 りんご直売所/ドライブイン併設→観光直売事業の強化
 昭和46年(1971年)  米の生産調整が始まり、りんご新植/稲作転換進む
アルペンルート全面開通
 昭和48年(1973年)  大町苹果生産組合/大北農業協同組合が合併→林檎生産販売事業合同が図られる
 昭和50年代(1975年)〜  わい化栽培の導入により生産性/品質向上に大きく貢献
早生種 津軽/中生種 千秋 などが導入
 昭和58年(1983年)  常盤/松川/池田の生産部会と統合により大北農協りんご生産部会が設立
 昭和61年(1986年)  大北農協りんご選果場が完成→大北管内のりんご共同選果開始
 昭和63年(1988年)  高根町に農産物加工センターが完成→リンゴジュース加工開始
 平成元年(1989年)  大北農業協同組合の最終的な合併統合→広域事業合同がなされた
大北農協/大町農協/大町市平農協
 平成5年(1993年)  ニュージーランド産りんご輸入解禁(グラニースミス/ロイヤルガラ/ふじ)
→平成6年りんご生産部会18人でニュージーランド/オーストラリアのりんご視察
 平成6年(1994年)  アメリカ産りんご輸入解禁(レッドデリシャス/ゴールデンデリシャス)
阪神淡路大震災/地下鉄サリン事件
 平成10年(1998年)  長野冬季オリンピック開催
 平成12年(2000年)  りんご選果場を移転(旧ボーリング跡地)
 平成16年(2004年)  北安曇にりんごが導入(収穫)されて100年を迎える
 平成17年(2005年)  北安曇のりんご100年のあゆみ 発刊

年表より注釈

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◯りんごはアメリカからやってきた
明治4年1871年
北海道開拓使次官の黒田清隆が明治政府の命を受け、アメリカから苗木七十五本を持ち帰り、勧業寮試験場で試験栽培を行いました。その苗木を長野県/青森県などへ配布したのです。

明治7年1875年
まだ長野県と筑摩県が別々だった頃、勧業寮からりんご3本/なし本/桃5本/ぶどう/杏/栗など11種類の果樹苗木がそれぞれに配布されました。

◯りんご栽培が盛んになるまで
明治初期から明治30年頃(1870年〜1900年頃)
各県内で篤志家(とくしか/主に社会福祉や慈善事業に熱心な人/地元の有力者などを指すのだと推察)や有産階級を中心に栽培が開始されましたが、経営までには至らず、観賞用程度にとどまっていました。

明治40年頃から大正5年頃(1907年〜1916年頃)
林檎経営として新規開園が盛んになったのはこの頃で、北安曇の林檎生産もこの頃から大規模化していきました。

◯りんご組合の設立/養蚕産業の衰退〜林檎栽培が一般化されるまで
 大正6年(1917年)
りんご経営を開始した先駆者達は、「りんご組合」を設立し、翌年から共同選果を始めました。(共同選果の元祖と言われている)
名古屋の青果卸に林檎の出荷/大町の九日町で直売を開始しました。

大正8年〜9年(1919年〜1920年)
第一次世界大戦終結(1918年)に伴う戦後恐慌の発生により繭価/生糸価格が大暴落し、県下で林檎栽培が急増し始めました。
大町では若林氏が一般農家では初めて林檎栽培を開始します。
一般農家への普及は昭和初期(1926年)〜で、養蚕不況による桑園からの転換/水田減反強化が生産拡大の契機となりました。

昭和5年〜昭和10年(1930年〜1935年)
世界恐慌(1930年)によるアメリカ国民の窮乏化により生糸輸出が激減したことにより、生糸価格の暴落がきっかけとなり、他の農産物も次々と価格が崩落していきました。→昭和農業恐慌
また、この年は米が豊作となり米価が下落しました。→農業恐慌本格化→農村では日本史上初といわれる「豊作飢きん」が生じる
これらのことから、一般農家が繭生産の為に蚕の餌として栽培していた桑園を、林檎畑に転用し林檎栽培が一般化していきました。

◯第二次世界大戦と作付統制〜農地解放
昭和14年〜昭和16年( 1939年〜1941年)
繭価の暴落により一般に不急した林檎栽培ですが、第二次世界大戦勃発(1939年)より食用不足となり、不急作物(ふきゅうさくもつ/急を要さない、絶対必要なわけではない作物)の栽培を禁止する「農産物の作付統制令」が交付(1941年)され、林檎栽培は低迷してしまいます。

昭和20年〜昭和22年(1945年〜1947年)
第二次世界大戦が終戦し(1945年)、農地改革(解放)が行なわれました。(1947年)
農地改革=GHQの指揮の下、日本政府は地主制度を解体(農地の所有制度の改革)したのです。
同年、「農産物の作付統制令」が解除され、林檎栽培は再度盛り上がりをみせていきました。

◯山川市場で林檎が大暴落〜ふじの誕生/観光直売強化
 昭和43年(1968年)
国光/紅玉(当時の林檎の代表品種)の価格が豊作により大暴落し、山や川に廃棄される事態が発生しました。この出来事は「山川市場」と呼ばれています。
原因として、昭和40年代前半は林檎生産量が全国で100万を超す程の最盛期を迎えたこと、みかんの生産急増/苺の増産/バナナの輸入増など、果物嗜好の変化が背景にあったとされています。
当時の林檎は酸っぱく、明治には高級なものとして扱われていましたが、栽培技術の発展により多品目の果物の需要が高まったのだと言われています。

昭和45年(1970年)〜
「長野県うまいくだもの推進事業」が開始(1968年)され、県/経団連/商協連が一体化となり、果樹振興を図りました。
需要が低迷した国光/紅玉から、新品種として開発(1960年)されたふじへの高接更新が一斉に開始され、ふじは林檎の代表品種となっていきました。
この頃から林檎の新品種が多く作られるようになりました。
また、黒部ダム建設(1963年)に伴い観光化が図られた大町市において、市場出荷が主体であった林檎の販売は、観光客向けの直売所/ドライブインなどでの地場販売へと移行していきました。

◯昭和後期〜平成の林檎のあれこれ
昭和50年代(1975年)〜
わい化栽培(接ぎ木した穂木の成長を押さえる性質を持ったわい性台木を利用する栽培法)の導入により生産性/品質向上に大きく貢献しました。

昭和60年代(1986年〜)
大北農協りんご選果場が完成(1986年)し、大北管内のりんごの共同選果が開始されました。
農産物加工センターが完成(1988年)し、リンゴジュースの加工が開始されました。林檎の加工は長野県内では先駆けの取り組みでした。

平成元年(1989年)
大北農協/大町農協/大町市平農協が合併し、現在の大北農業協同組合となり、広域事業合同がなされました。

平成16年(2004年)
北安曇にりんごが導入(収穫)されて100年を迎えました。

次回へ続く!!

今回のレポートはここまで。
今回は、北アルプス山麓地域の林檎100年のあゆみについてをお伝えいたしました。
この100年を辿ると、いかに日本の農業が歴史に左右されてきたのか!ということが伺えますね。
人々の物作りの精神と努力が、いま私たちが当たり前に口にすることのできる林檎を生み出したのだ。と、知ることができました。

次回は、取材をさせていただいた大町市三日町の3代目林檎農家の峯村氏のお話を中心に、林檎農家という仕事についてをレポートいたします。
どうぞ、以下リンクよりおすすみください。

>>後半のpart.2記事はこちらから<<

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地域学習で町歩き!武蔵野市立第五中学校と大町市立仁科台中学校が地域間交流

地域学習で町歩き!武蔵野市立第五中学校と大町市立仁科台中学校が地域間交流

「皆さんは男清水を『おとこしみず』と読みませんでしたか?これは、『おとこみず』と呼ばれています。」
大町市立仁科台中学校(以下、仁中-jinchu-)の生徒が、大町の町中の文化/歴史を学び、調べ、武蔵野市立第五中学校の生徒にレポートを読み上げながら説明しておりました。

東京都武蔵野市の中学生が大町に訪れ、このように地域学習を通じ、大町市の中学生と交流する【まちなかディスカバリー】は、今年で2年目の開催となりました。

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こんにちは。AIR MAGAZINEライターのたつみです。
今回は、9月に武蔵野市立第五中学校(以下、五中-gochu-)の地域学習として行われた【まちなかディスカバリースクール】についてレポートします。

-まちなかディスカバリースクールって?

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東京都武蔵野市ではセカンドスクールという農山漁村に長期宿泊を行う教育活動を実施しており、五中は昨日からここ北アルプス山麓地域を学習地域とし、4泊5日で白馬村のホテルと農家民宿で宿泊し、山岳の自然学習/農作業体験などを行いました。

その行程で、五中の旅行の企画手配をしている大北農協観光課が、大町の町歩きを提案。
もともと仁中の地域学習にも関わっていた地元の【NPO法人ぐるったネットワーク】が企画協力し、双方の学校の希望を調整しながら、学び合いの交流が実現しました。

仁中生徒が五中の生徒を案内して町を歩きながら、事前に学んだ大町の文化/歴史を紹介する「まちなかディスカバリー」。
町歩きの後は、仁中体育館でのポスターセッションと交流会に続きます。

-大町の文化的 歴史的な町並みを歩く

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大町市街地は、古くは日本海と信濃を繋ぐ交易路の街道、通称「塩の道」が通り、関所と宿場の大きな町でした。
交通の要所となっていたことで、商家/酒蔵/土蔵などの歴史的な建築物が立ち並び、今も古き良きその面影をとどめます。

グループに分かれた生徒達は、町中の文化/歴史的な場所を巡り、仁中の生徒は総合学習の時間で調べてきた自分たちの暮らす町のことを、五中の生徒に伝えます。

◯街中ディスカバリースクール コース&ポイントマップ
・塩の道ちょうじや
・八日町ポケットパーク
・いーずら大町特産館
・松葉屋旅館
・男清水 女清水
・麻倉
・市野屋商店
・酒蔵のなまこ壁
・大町名店街
・下仲町ポケットパーク
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男清水(北アルプス白沢水源)女清水(居谷里水源)は二つの異なる水源から引いている水で、これらは駅前本通りを挟んで東西に分かれて出ています。
飲み比べができる水場は今回のハイライト。
用意してきたコップを渡しながら、仁中生が五中生に説明をしておりました。

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いーずら特産館では大町の様々な産品が扱われています。
他、市野屋商店の防火用のうだつのこと、松葉屋旅館が町のランドマークだったこと、麻倉がリノベーションされてギャラリーになったこと。
など、大町の町についてを調べたことを一生懸命五中生に説明をしておりました。

こういった、自ら調べたこと、関心を持ったことを誰かに伝えること。
これらの時間が、文化/歴史を学ぶ上でとても大切なことなんだと感じます。

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生徒達は終始賑やかに、元気よく町の中を巡っておりました。
遠巻きから写真を撮り、様子を伺っていた私ですが、地域のことを「学ぶ」「知る」「伝える」ことは、中学生の彼らにとってこれからの糧になるんだろうなぁ。と感じた次第です。

私は7年前に北アルプス山麓地域に移住し、地域の文化/歴史に興味がありますが、地元の同年代はそういった情報には疎く、自分たちの地域のことをあまり多くは知りません。
それは地域における、学習や教育と関係するのかな?という、少々大きなことを考察することがあります。
過去からの文化が歴史として積み重なり、いまがある。

楽しくも賑やかに町を歩く彼らにとって、このような機会は、地域のことを学ぶ上でも、地域外の同世代との交流も。
とても有意義で価値のあるものであったのだと感じました。

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以前AIRブログで取り上げさせていてただいた麻倉さんもコースに入っておりました。
誰でも作品を出展できる「アンデパンダン展」が開催されており、中学生は各々の視点で作品を鑑賞しておりました。

以前のブログ>>
AIR MAGAZINE Art&Crafts麻倉は「作ることで繋がる」ところ

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街中ディスカバリースクールの始まりはツアーコンダクターの農協観光さんの発案によるものでした。
町歩きを通しての地域学習の企画を市内のNPO法人ぐるったネッットワークさんが協力し、もともと総合学習に力を入れていた仁中の活動を取り上げ、このような取り組みに落とし込まれたのだそうです。

【NPO法人ぐるったネッットワーク】
ぐるった=周辺/周り という意味で、地域の人や資源を繋ぎ、大町を発信する団体さんです。
地域での様々な活動の多くにぐるったさんは参画しており、地域情報を広く持たれております。
私自身も仕事や地域活動でご一緒する機会の多い団体さんです。

大町市のスキー場「鹿島槍スキー場」を起点に南は安曇野〜北は小谷村まで120キロの自転車の大会「北アルプス山麓グランフォンド」の開催や、地域情報を様々な切口で紹介する「ぐるっとマップ」の作成等、地域に関わる多くの事業を展開しております。

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今回生徒たちをサポートしたのはぐるったの専門部会「北アルプスネイチャーガイド」のみなさん。自然体験やカンジキツアーなど、地域をフィールドとしたガイドやツアー企画の開催をしております。
今回のような町歩きを通し、外から来られた方に広く大町を知っていただこうと、街中ツアーの充実も検討されているようです。

大町には家の下に水路が通っていたり、通りを挟んで右と左で水源が違う水道が引かれていたり、黒部ダム建設時に栄えたり呑み屋街があったり。
と、見て回るには大変に面白い町です。
文化と歴史に触れながら大町を散策するのは、大人の方でも十分に楽しめると思います。

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-未来を創る、これからの子供達

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「ここ(大町)で育った子たちは、東京に憧れて地元を卑下しがちですが、大町が生き延びるためには、都会と対等な関係が築ける自立した町になることが必要。進学などで大町を離れる前に、故郷への誇りを持ってもらえれば。」
NPO法人ぐるったネッットワーク大町のゆっかさんこと鈴木氏はそう話します。

それぞれにそれぞれの良さがあり、双方が「知る」きっかけとなるよう、仁中と五中の生徒さんたちをつなぎ合わせました。
生徒たちは暮らす地域こそ違えど、同じように笑い合い、中学生らしくいたずらをしたりはしゃいだり。
この双方の関係性に、地域間の違いは感じられませんでした。

自分たちが生まれ、暮らす地域の未来。
引き継がれるものも朽ちていくものもある中で、子供達は町のことを知り、何を考えていくのだろう。
そんなことを考える時間でありました。

記事&写真
たつみかずき

大町市美麻新行のそば‖山間の農村のあゆみと蕎麦

大町市美麻新行のそば‖山間の農村のあゆみと蕎麦

「『蕎麦が欲しけりゃ、新行に買いに行け。』私がこの村に嫁ぐ前から、私の暮らしていた小川村で 

<イベントレポート>原始感覚美術祭2016‖自然と作品が調和した美術祭

<イベントレポート>原始感覚美術祭2016‖自然と作品が調和した美術祭

息を呑む。 という言葉を、ここ長野県北アルプス山麓地域では使うことが私にはよくあって。 そ 

<イベントレポート>ALPS BOOK CAMP2016‖木漏れ日の湖畔で本と緩やかな時を過ごすフェスティバル

<イベントレポート>ALPS BOOK CAMP2016‖木漏れ日の湖畔で本と緩やかな時を過ごすフェスティバル

湖の畔に漂うその緩やかな時間は人々の幸福に満ちておりました。
木漏れ日の午後、山々に囲まれた湖の畔のキャンプ場では、たくさんの人が本を手にしたり、寝そべったり、音楽に耳を傾けたり、水遊びをしたりと、思い思いの時間を過ごしておりました。

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こんにちは。AIR MAGAZINEライターのたつみです。
大町市の北部に連なる仁科三湖の南端の湖「木崎湖」にて、今年で3回目となる【ALPS BOOK CAMP2016】にお邪魔してきました。
昨年は2日間の開催でしたが、今年は8月2日(金)から3日間の開催となった同イベント。
今回のAIR MAGAZINEでは、この素敵な時間漂うイベントをレポートいたします。

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-ALPS BOOK CAMP?イベントの様子

ALPS BOOK CAMP(アルプスブックキャンプ)は、「アルプス山麓で本を愉しむフェスティバル」と題し、木崎湖キャンプ場で開催される夏のイベントです。

古本を取り扱うショップブースを中心に、飲食や雑貨など約80ブースが木漏れ日のキャンプ場に軒を連ねました。
県内外からたくさんの方が訪れ、昨年は2日で約2400名が訪れたそうです。

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入口を入ると笑顔が素敵なスタッフさんが迎えてくれます。
皆さん長野県内からこの日の為に集まりボランティアとしてお手伝いをしているそうです。
「オリジナルグッズもありますよ。」と色々と見せてくれました。

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受付を済ませるとイベント特製の缶バッチが手渡され、入場のチケット代わりになります。
ぼくはこのランタンの絵を選びましたが、他にも動物の絵など数種類がありました。
グッズなどで使用されているこの手描きのデザインが、イベントの緩やかさに大変馴染んでいるのです。
他のデザインのバッチに何度も目移りしたことは、言うまでもありません。。

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早速賑わう会場を一回りしてみました。
古本屋さんの他には、ドライフラワーのお花屋さん、アンティークの雑貨屋さん、地域の野菜を売るお店さんや、飲食店さんなどなど。
会場には多彩なブースが出展されていて、どのお店も個性的で魅力的。
それでいて、一つ一つのお店が会場の緩やかな雰囲気に溶け込んでいて、会場全体が「ALPS BOOK CAMP」というイベントを形作っている印象でした。

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キャンプ場の端の広場では、音楽のステージがありました。
この時の演奏は私も個人的に密かなる想いを寄せている青谷明日香さんが務められておりました。
「かまぼこ板しか興味がない♪」と唄う不思議で暖かい【異端児の城】は、個人的に愛してやまない一曲です。笑

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場内から湖に向けて伸びる桟橋は木崎湖キャンプ場名物です。
泳ぐ人やウォータースポーツを楽しむ方などで夏は大変賑わいます。
この桟橋から湖に子供達が飛び込む姿も、キャンプ場ではよくみられます。

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色とりどりのタープの下には昭和の生活雑誌から、絵本、洋書まで、たくさんの本が並べられておりました。
ブースによって取り扱う本の種類や趣向は様々なので、自分のお気に入りを並べる出店者の方と、ゆっくりお話をしながら本選びをするのも楽しみの一つですね。

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本を手にする文化的な人々と、爽やかな夏の乾いた風が吹き抜けるキャンプ場。
文字で表すと不可解ではありますが、その光景は北アルプスの湖畔に驚くほどにぴったりです。

-ALPS BOOK CAMPの始まり

tatsumi_アルプスブックキャンプ2016-18ALPS BOOK CAMP主催者【菊地 徹】氏

「長野県でしかできない本のイベントをしてみたかったんですよね。」
松本市で本と珈琲が愉しめるお店【栞日-sioribi-】店主であり、ALPS BOOK CAMPの主催者である菊地氏はそう話してくれました。

「本はどこにでも手に入るし、一点物でもないんです。本のラインナップでの差別化は計れない。それでも、長野県には山がある。ここにしかないアルプスのロケーションの麓で、本のイベントをやろう。山麓の気持ちがいいところでキャンプをしよう。そう考え、始めたのが、このALPS BOOK CAMPです。」

-ALPS BOOK CAMPと木崎湖キャンプ場

「キャンプと言ったらキャンプファイヤー!それは外せなかったんです。それで、キャンプファイヤーと出店ブースが集まるイベントをしたい!と、色々と当たってみたんですが。。これがどこも門前払いで。。」
菊地氏はこのイベントを開催するにあたり、アルプスが見えるロケーションの会場を探し回ったそうです。
初めは縁のある松本市内で。それでも、イベントの内容に賛同してくれる会場はなかなか見つかりませんでした。

「木崎湖キャンプ場のことは、ぼくの奥さんから教えてもらいました。管理人のとっちーさんに電話で内容を話したら。『何言ってるんですか?!』って。あーだめだ。。断れる。。と思ったんですよ。そしたら続けて『めちゃくちゃ面白そうじゃないですか!うちでやりましょう!!』って。」

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木崎湖キャンプ場管理人【とっちーさん】こと【荒井】氏

「菊地さんから話を聞いて思ったのは、まず『楽しそう!!』ってことでした。初めはキャンプファイヤーを囲んで菊地さんが本の朗読会をしたいって言ったんですよ!めちゃくちゃおもしろうそうじゃないですか。見てみたいじゃないですか。それで、『やりましょう!』って。」
そう、とっちーさんはニコニコしながら3年前のことを話してくださいました。

2014年夏、第1回目となるALPS BOOK CAMPはキャンプ場の半分のみで開催されました。
来場者の予想数は300名でしたが、実際の来場者数はなんと1000名を超えたそうです。

2015年の2回目には2400名の来場者が訪れ、今年3回目を迎えたALPS BOOK CAMPは菊地氏がイメージしていたイベントへと成長を遂げました。

「イベントの評価が高かったのはこのロケーションが良かったからだと思います。正直、もっと規模を大きくするのであれば他の場所も考えたりすることはあるんです。でも、来場者の方は木崎湖に来ることを楽しみにされていると思うんですよね。」
そう話してくれた菊地氏は、来年の開催もここ、木崎湖キャンプ場で行いたいと考えています。

-ALPS BOOK CAMPの今後

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「<大町で夏に開催される本のイベント>今後はそう呼べれるものとなっていってほしいと思っています。大町で起こっている様々なアートの取り組み、大町のアートカルチャーの特色。このALPS BOOK CAMPも、それらの大枠の中の一つになれればと思います。」

このAIR事業も、来年開催される北アルプス国際芸術祭も、原始感覚美術祭も、AIR MAGAZINEで取り上げさせていただく様々な団体や作家さんも。
大町にはたくさんの芸術/アートに関わる人たちがおられ、様々な活動が展開されています。

菊地氏が考えるALPS BOOK CAMPの今後は地域に溶け込んでいくこと。
夏に木崎湖で打ち上げられる花火のように、大町の夏の景色の一つになることです。

-レポートのまとめ

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「なんて幸福な時間なんだろう。」
ALPS BOOK CAMPでの感想はそういった感覚のもので、何が良かった!ではなくて、流れる時間そのものに「幸福」という言葉が似合うものでした。

木崎湖キャンプ場は、私が大好きな大町の一つです。
こんなにも木崎湖キャンプ場の木漏れ日の午後が似合うイベントは他にはないと思います。
また来年も、ここで流れる緩やかな時を過ごし来ます。

たまにはのんびりと、波や風や、はしゃぐ子供達の音と声とを聞きながら本を読む。
そんな幸せすぎる時間を、来年の夏は是非過ごしてみてください。

記事&写真:
たつみかずき

原始感覚美術祭2016‖北アルプス山麓大町市木崎湖畔の美術祭開催のお知らせ

原始感覚美術祭2016‖北アルプス山麓大町市木崎湖畔の美術祭開催のお知らせ

「地域の人たちからこの森借りてさ、去年の作品並べたり、今年の作品をいま創ってたりしてるんだ