木彫家 髙橋貞夫 第2章 ―創作の原点、彫彩と裂け目―

木彫家 髙橋貞夫 第2章 ―創作の原点、彫彩と裂け目―

髙橋貞夫さんは、大正8年より洋画家山本鼎の提唱で始まった農民美術を源流に、信州に暮らしながら、力強く繊細な木彫と漆の技術を合体させた「彫彩」の世界を生み出した木彫家です。今年開催される北アルプス国際芸術祭2017の招待作家で、2月18日で喜寿になられる髙橋さんに、創作の原点を伺いました。

―髙橋さんは、どんな作品を制作されているんでしょうか?

俺は木彫家だでね、大きなものは100KGもあるような、日展で日本一重い作品だって言われるような物を創っていたわけだ。それが、ある時に文化勲章をもらった、穂高出身の髙橋節郎先生と出会って、東京の工房を見てけよって言ってくれて、良くしてくれただ。節郎先生の制作しているところを見てね、弟子じゃないけども、その作品にほれ込んでた。工房に入れてもらうなんてのは大それた事なんだよ、そうやって先生かたその技法を学ばせて頂いたわけだ、漆と黒と金の世界を。

そんな事があって、木彫りばっかりやっていても、全国で木彫りの作家って富山でも九州でも、あちこちでいるんだよ。同じ事をやっていても面白くないなって、自分の木彫りの作品と、漆を合体させる事を、作り出したわけだ。それをドッキングさせたら素晴らしい作品ができたんだよ、節郎先生も褒めた、これはいいぞって。それでその作品ばかりを創ってずっと日展に出品してきたら、日展でも特選を2回とって、審査員にもなって、認められたんだな。今もここでも作ってるんだけど、漆の板に金箔をいれて、そこに彫ったものを抱き合わせていくっていう作品をさ、俺がつくりあげて、これから完成していくわけだ。

この漆と木彫を合体させたのを、この自分の世界に名前をつけたんだよ。節郎先生達は、墨で描いた「墨彩」っていう絵を描いてた。それで俺は、木を彫って彩えるというか、輝いていく事を「彫彩―ちょうさいー」っていう言葉で現したんだよ。その事を節郎先生に言ったら、「僕も墨彩はやってるけど、彫彩っていい言葉だな」って言ってくれたんだ。それで、中央に行っても使っていたら、ある時に手紙が来て「先生、彫彩って言葉を使わせてもらってもいいですか?」って、それくらいに浸透していったんだよ、その分野が。だから俺が彫彩作品の先駆者だよ。今もその流れでもって、彫彩っていう仕事をずっと続けているわけだ。

だから、地場産業のお土産をつくってた人間が、今は日展の作家としてね、芸術家として仕事をしているっていう風に展開してきたから、基本ができてるだ。もう嫌だっていう程、徒弟制度の中で先輩に怒られながら学んできた人間だから、こんなものを彫るっていったってへっちゃらだでね。ともあれ、節郎先生には本当にお世話になって、今は穂高の髙橋節郎美術館は友の会で副会長をやってるだけども、あそこだけは死ぬまで自分が面倒を見ていかないといけないっていうね、そういう事なんだよ。

―作品製作の中で、一番大切な瞬間を教えていただけませんか?

芸術家として創る作品の中にはいつも、これだけは曲げられないっていう俺のテーマがある。いつものみを握り、刀をパンパンパンって大雑把に叩いて作り上げてく中で、ものすごく緊張する場所、普通だったらもう、口笛を吹きながらでもできるくらいの技術を持ってるだけど、ここだけは、なんとしても、気を抜いたらいけない、ちょっとでも気を抜くとひっかけちゃう、その瀬戸際まで創らなかったら、その作品は成功しないという場所が、必ず俺の作品の中にあるわけ。

それが何かっていうと、俺が学校を卒業して、昭和30年に徒弟制度の中に飛び込んだ時に、いつまで経っても、3年たっても4年たっても、いつも先輩がいて押さえつけられているわけ。世の中ってそういう事あるじゃんな。何かこう、そのひとつの皮を破って、自分が自由な身になりたいっていうこと。俺がいつも創っているひとつのテーマっていうのはそういう所から始まったんだよ。だから、俺の作品にはいつも、こうやって割れている所があるわけだ。割れて、そこから飛び出たいんだけど、なかなかそこから出られる作品ができない、だから俺の作品はこれからなんだよ。まぁ今年も開かなんだわ、この70余年生きてきて、80までのうちにそれが完成するのか、一回、それがいつできるのかっていう事だわ。

結局、この作品も、これも、これも、これも、みんなそうだよ、作品には全部はいってる。

例えばこの10年の間に、1年、1年、この時はこういう割れ方、あの時はああいう割れ方っていう風に、それは自分の人生のさ、彫っていく時の瞬間に、やっぱり苦しい、何かあった時、には縮まったりしてるとか、うんと良い事があった時のはパァっと割れていって、まだ出れないんだけども、その線がきれいにできたりする。人間っていうのは不思議なもんだな、自分の心の中で物をつくってる、それは隠すことはできないんだよね。だから、俺のこの、30何点あるのを見れば、毎年創っているから、この時はそうだったな、っていう風にそれを見るだけで、自分の歴史っていうのがわかるからな。

こんなのは自分との闘いだからね。俺にしてみれば、本当に人生をかけてきたひとつのテーマだから簡単な物語じゃないんだわ。絵を描くにも、必ずその絵(裂け目)を描いて、そこから伸びていくわけだ。最初にそこが在って、そこから今まで自分が培ってきた物があって、今度はこんな事をしたいとか、頭の中でもって、そこを中心に伸びていくわけだよ。

そこからいつ飛び出せるかっていうのが、俺のテーマなんだわ。開いて抜け出れねぇんだよ、何かそこにね、あるだよな。どうしても縮まってなきゃいけねぇって事じゃないだよ、パーンと割れてさ、竹を割ったらそこからお姫様が出てくるじゃんな、俺のは出ねぇだよ。だからこれは俺の一生の問題で、これから、77歳の喜寿になって、そこから自分が変わって、最後の3年間位でパァっと、今まで俺がやってきた木彫の世界が、ようやく棺桶に入るころに達成したぞっていうのが、俺の生きざまなんだよ。そこの所が完成しなかったら、本当は俺の作品っていうのは完成しないんだけどさ、それは簡単にできるようだけど、できないんだよな。

―すごいお話をありがとうございます。最後に、髙橋さんにとっての信州について、一言いただけないでしょうか?

以前、長野県の吉村知事に頼まれてさ、松本の県立文化会館ができた時に、信州を彫ってくださいって言われただよ。でかいのを創っただ、今でも文化会館にあるけどさ。その頼まれた瞬間に出てきたのが「月天樹天-つきてんじゅてん-」っていう言葉だったんだよ。俺が信州に住んでいて、星空の、宇宙の世界がきれいなのと、木の宇宙がきれいだっていうのが、俺が一番思う事なんだよ。信州っていう土地はそれくらいに澄みわたった、清潔感のある、純粋な世界だと思うんだ。

―どうもありがとうございました。
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