木彫家 髙橋貞夫 第1章 ―農民美術、木っ端人形から芸術家へー

木彫家 髙橋貞夫  第1章 ―農民美術、木っ端人形から芸術家へー

髙橋貞夫さんは、大正8年より洋画家山本鼎の提唱で始まった農民美術を源流に、信州に暮らしながら、力強く繊細な木彫と漆の技術を合体させた「彫彩」の世界を生み出した木彫家です。今年開催される北アルプス国際芸術祭2017の招待作家で、2月18日で喜寿になられる髙橋さんに、創作の原点を伺いました。

―それでは、どうぞよろしくお願いいたします。まず初めに、髙橋さんが美術の世界に足を踏み入れたきっかけを教えて頂けないでしょうか?

学生の時に物を作ったり、絵を描いたりっていう事がものすごく好きだったんだよ。中学校を卒業するとき、本当は高校に行きたいという気持ちもあったんだけど、昭和30年だから、就職する人も多い中で、美術の尾竹正躬先生が、「髙橋君、こういう所があるんだけど、どうだや」って言って「農民美術研究所」を紹介してくれたの。もうその時に「行く行く、先生、俺行くいね!」ってもう、すぐ。そこで修行をしながら勉強もできる、なにしろ、ものづくりを教えてくれる、木彫りを教えてくれるっていう事だけで飛び込んじゃったわけだ。それが、昭和30年の4月1日だわ。

農民美術っていうのは洋画家、山本鼎先生っていう大先生が大正8年に立ち上げて、長野県の上田地方で拡がっていたわけだ。山本鼎先生が絵の旅にヨーロッパとかロシアに取材へ行った時に、北欧のノルウェーとかスウェーデンとか、ロシアの雪の深いところで冬は何をしているだろうかって見たら、木っ端人形を彫っていた。今日みたいな雪の中でさ、これは信州の人たちも同じ条件だと。冬にはやることがないから、木っ端人形を彫って、お土産物として売る。これを上田にもって帰ってきて、定着したのが農民美術っていう事で、山本先生が作り出したわけだ。

日本農民美術研究所が大正8年に上田市大屋に創立されて、そこで木彫りを教えたりして、農民美術が信州でどんどん発展したわけだ。でも、それが段々衰退してきていて後継者が少なくなってきた。昭和30年当時、地場産業を発展させるための特産課が県庁にあって、農民美術を復活させようという事で上田地方に研究所ができて、白馬、大町、小諸、木曽から学生を呼び込んだんだ。それで上田に行ってみたら、長野県中から来た15人位が、6-7人の農民美術の先生の所にスカウトされていくわけ。そこで、俺は富岡先生っていう人の所に、内弟子として入ったんだけどね。それは一応、研究所の一期生という形で行ったんだけど、個々の家庭に入ったね。時には上田の研究室に集まって、大勢の先生方が教えてくれる。勉強を先生の工房と研究所でしていくわけだ。それで、4年間経って、卒業証書をいただくわけだ、それがあそこにあるあれ、木彫工の職業訓練指導員の免状っていうね。15人いたんだけど、卒業証書をもらったのは残った5人きり。みんな修行が苦しくて、それと親が連れにきちゃったり、俺は嫌だって言って逃げちゃったり、それくらい厳しい徒弟制度の世界だった。

その中で歯を食いしばってがんばって、4年間終わったら、先生が完全に卒業していいよって、他の4人はみんな地元に帰っちゃった。俺も大町へ帰ろうと思ったけど、先生が、「貞夫君や、もうちょっとうちで仕事として、後継者を育ててくれないか?」って言われた。それで、俺はこっちに帰ってきても跡取りじゃないもんで「じゃぁ先生、もう少しやります」と言っているうちに4年間、礼奉公を兼ねてやったんだよね。8年間上田で人に教えることを学んで、それは自分の弟子たちを指導するのに役立った。

―8年間の修行を経て、大町へ帰ってくるんですね。

俺が大町に帰って来た時には、兄貴たちはみんな都会にでちゃったりして、ここにはもう誰もいなかったんだよ。親父もお袋も若い時に亡くなって両親はいなかったもんでね。それで、ここを継いでやってくれやって兄貴たちに言われて、俺の名義にして自分で作り上げていったんだよ。そのうち嫁さんをもらう年になって、27歳の時に嫁さんをもらった。昔はここだってこんな風になってるわけじゃないから、裏に土蔵があって、その中でこつこつブローチを彫ったり、ペンダントを彫ったり、本当にお土産品づくりを学んできた人なもんで、一生懸命そんな事をやっていたわけだ、ずーっと。

―日展に出品されるようになったのはいつ頃なんでしょうか?

もうずっとお土産品をコツコツ作ってたんだけど、なんかそればかりじゃ面白くないなぁ、なにかものを作って、中央へ、日展でもやってみたいなぁ、と大それたことを考えた。それで、2回ばか落っこって、3回目の昭和50年に日展に初入選したわけ。その時の生活はどん底に居ただよ、女房子供を食わしていかなきゃいけないのに、どうやって明日食えばいいか、という調子だったんだけど、日展に入選した時に、よし、これだったら俺は生きていけるぞ、という事を感じただよ。中央で認められた、素人が出しても認められるだな、という事があった。それをきっかけに毎年、何十年も日展へ出品してきた。その他に日本現代工芸美術展も同時に挑戦したいた。毎年入選していくうちに、1年も辞めたことはないんだけども、そしたら近所の衆がみんな、髙橋さんすごいねって言ってくれて。それで昭和53年頃に店をもったんだよな。店なんか最初はそんなちゃんと作ったわけじゃなくて、店をやってます、と言って飾っといたら、不思議に買いに来てくれる人がいるだよね。新築祝いに、記念品に、とかで。それで、店というのは面白いな、と思って、信濃大町駅前の中部電力の前のでかい角の所に借りてさ、27年間、女房と店をやったんだよ、でかい店だよ。

 

―それから、作家としての活動が増えてくるんですね。

昭和50年から10年くらい経ったくらいかな、お土産品じゃなくて、作家として生きていこうという感じに変わってきたんだ。その時はもう日展に入って作家活動をしていたんだけど、もうあちこち全部やめて、作家活動に専念しようという事で。長野東急に展覧会をお願いしたら、いいじゃないですか、って言ってやってもらったりして。そのうち、現代工芸長野会っていう組織を作り上げて、3年位前まで26年間会長として40人位の作家をまとめて、活動してたんだよ。今でも東京の方では、現代工芸美術家協会の理事者としてね、あと日展では会員、昔でいえば評議員だわ、今年も審査員をやったんだけども、後継者を作ろうっていう事で、作家を育ててるだよ。

生活っていうのは大変だから、作家になっても好きなように生きてけるわけじゃない。好きなものは作れるけども、いくら金をかけて作っても、それが人の手に渡っていかないと、自分たちは太っていかないわけだから。でも、作家っていうのは皆そうだと思うけども、物を作ること、これだ!っていう物を完成させること、それは売れても売れなんでも関係ないだよね。

第2章 ―創作の原点、彫彩と裂け目― に続く

 



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