北アルプス山麓地域の林檎‖100年のあゆみと林檎農家になる!ということ part.2
「それまでなにもなかった畑に林檎が植わっててさ。『なにしててもいいけど、お前が帰ってきて林檎作れるように、準備してるからな。』って、親父から言われてさ。正月明けてから会社に行って『社長すいません。俺、実家で林檎作ります。』って言ったんだ。」
大町市三日町の峯村農園の3代目である峯村忠志さん(43歳)は自身が農家になった成り行きを話してくれました。
初冠雪より数日後の北アルプスは白くお化粧をしていて、真っ青な空と太陽が気持ち良い秋の日のお昼前。
私はふじ林檎の収穫が行なわれている、大町市三日町の峯村農園さんの林檎畑を訪れました。
赤くなった林檎を黙々と収穫する峯村さんの姿がそこにはありました。
北アルプスを眺める2.5町歩の大きな畑は清々しく、あくせくお仕事をされる峯村さんを遠巻きから写真を撮りながら
「嗚呼、こんな幸せな職場がこの世に存在するのか。」
と、大きく深呼吸をするのでした。
part.1のおさらい
こんにちは。AIR MAGAZINEライターのたつみです。
前回に続き、北アルプス山麓地域の林檎の100年にあゆみについて&林檎農家という仕事について の、後半編をレポート致します。
前半は、100年のあゆみについてを振り返りながら、私たちが普段食している林檎についてを見つめ直しました。
今回は、大町市三日町の峯村農園の3代目である峯村忠志さんからお話を伺い、どうして「林檎農家」という生き方を選択し
そして、どのような想いで林檎の生産に取り組まれているのか。
についてをレポートしたいと思います。
先代の言葉
峯村さんは農業関係の大学を卒業されてから24歳の若さで、先代が19歳の頃に始められた農園に就農されました。
農園は、2.5町歩ずつの畑が二つ、合計5町歩(約5ha)という北安曇地域では大規模な農園です。
そして、北アルプスが目の前にどん!とそびえる絶景スポットでもあります。
峯村さんは就農してから程なくして、海外の林檎栽培を学びにブラジルのサンジョアキンの農園を視察に訪れました。
サンジョアキンは、標高1350m程の山岳地帯でブラジルで唯一雪が降る地域だそうです。
ここでは林檎や葡萄の大規模栽培が盛んで、個人経営の畑でも約200町歩(峯村農園の40倍!!)の巨大な林檎園経営が普通らしく、世界の農業と日本の農業の大きさの違いを感じたそうです。
帰国後、経営的な価値観の相違から農園を離れ、長野市の広告関係のお仕事に就いた峯村さん。
半ば家出状態で実家の農園を飛び出してしまったのだそうです。
「長野での仕事はすごく楽しかったんだけどね。『人の作ったものを飾って売るのではなく、自分のものを売りたい』って思うようになったんだ。」
「家を出てから1年が経った正月に恐る恐る帰ってきたら、それまでなにもなかった畑に林檎が植わっててさ。『なにしててもいいけど、お前が帰ってきて林檎作れるように、準備してるからな。』って、親父から言われてさ。正月明けてから会社に行って『社長すいません。俺、実家で林檎作ります。』って言ったんだ。」
それから峯村さんは帰農し、1つの畑を譲り受け、農業経営者として再スタートをしたのだそうです。
農業を生業にするということ
峯村さんの農園には多品目の林檎が栽培されていて、名前すら聞いたことのない林檎もたくさん。
秋の時期は、農園の前でこのように林檎が直売されていて、たくさんの方が市内外から林檎を求めてやってきます。
倉庫には選果が終わった林檎/これから選果される林檎が山積みで、それらが段ボールに詰められて、誰かから誰かへのプレゼント(贈答用)ととして日本中に配送されます。
地域のスーパーにも峯村農園の名前が入った林檎が並んでいます。
「農業は食えない。」とよく聞きますし、実際にこの北アルプス山麓地域で「農家」として生計を立てている方はそんなに多くはありません。
その中で「農家」を生業として、仕事と生活をしていることは、どのようなことなのでしょうか。
「この辺じゃ、親から小遣いをもらうような形でやってる人もいてね、うちは初めから親父が経営委譲してくれてさ。」
「秋になると、赤くなった林檎全部がお金に見えてさ!それはもう林檎を作ることが可愛くて楽しくて。」
笑いながら峯村さんはそう話してくれました。
林檎は春から収穫の秋(林檎は早いものだと8月末〜遅いものだと11月中旬くらいに収穫する)までずっと手をかけなければいけません。
「平成18年の2月の最初にかみさんと出逢って、6月に結納したんだけど、その数日前に雹が降ってさ。全国ニュースにもなったんだけど、その年は俺が就農してから一番林檎が取れなかった年だったんだ。綺麗なかみさんもらったバチが当たったのかもな?」
そんな話を峯村さんは楽しそうに続けてくれました。
自然は気まぐれで、前触れなく表情を変えるのです。
気温や霜/降水量/日照量/風etc..様々な環境の変化で林檎の出来と収穫量は左右されます。
自然に振り回されながらも、続ける農家という仕事はやはり過酷なのだと感じます。
それでも、峯村さんはいつも楽しそうで、爽やかなのです。
過酷なお仕事の中に、やりがいと楽しさがあるのだ。と峯村さんは話します。
仲間を集めて加工所をジュースとジャムの加工所を作った
「その雹が降った年の林檎の半分が傷物でさ、これどうするか?って仲間内で話して『いっちょ建てるか!』ってなって、加工所作ったんだよ。」
雹の年の林檎は半分が傷物となってしまい、加工用にしかならかったのだそうです。
そんな出来事にめげるのではなく、なんと30軒の農家仲間が集まり、共同で出資して、大町市の補助金と国の農業近代化資金(借入)に協力してもらい、ジュースとジャムが加工できる加工所を自分たちで作ったのだそうです。
すごいバイタリティ。。
それから出資者以外もこの加工所で委託加工での利用できるようになり、年間予想の倍の利用があったそうです。
(いまでは国からの借入も完済したそうです。すごい!)
大町はふじ林檎栽培の北限で、降雪の理由から11月25日までには収穫すべし!という教えがあるらしく、成熟できない林檎が多いようです。
また、青実(あおみ/表面が青っぽくなったもの/食用の林檎には適さないがジュースの加工には適している)林檎もたくさんできてしまうらしく、30年以上も前からジュース加工をしていたそうです。
これは、全国的にも先駆け的な取り組みであったようです。
峯村さんの今後
「家の前の道が黒部ダムの入口の扇沢まで続いていてね、その時は家の前も観光バスとか車で長い列だったんだよ。俺は林檎で育ててもらって、大学にも行かせてもった。これからは、自分が林檎を作るだけじゃなくて、林檎がある大町のことを外の人にも知ってもらいたい。」
そう話す峯村さんは、県外に出て林檎や大町の特産物などをイベント出店で売りに行ったりと、地域の関係でも尽力しています。
生まれてから林檎に囲まれる環境で育ち、先代から林檎の木を受け継ぎ農家として生きる峯村さん姿は、とてもカッコよく、そして若々しくお洒落です。
昔ながらの職人としての気質を持ちながら林檎作りを極め、若い価値観で農業経営を進めている。
そんな林檎農家という生業は、とても魅力的で素敵だなぁと感じました。
まとめ
普段当たり前に口にする林檎。
秋になると玄関に段ボール一杯に詰められて誰かからいただく林檎。
私たちの生活には、林檎が生活の中に溶け込んでいて。
当たり前にありがたみもなく美味しいな、と食べている林檎。
そんな、地域の食と農にも
奥深しい歴史と、それらに関わる人がたくさんいるのです。
秋の林檎の甘い匂いで満たされる家の居間。
昔はおばあちゃんが剥いてくれた林檎を炬燵で食べていたなぁ。なんて懐かしいことを思い出します。
100年間、農家さんの愛情で育てられてきた林檎
あなたもお一つ、いかがです?
記事&写真
たつみかずき
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