北アルプス山麓地域の林檎‖100年のあゆみと林檎農家になる!ということ part.1

北アルプス山麓地域の林檎‖100年のあゆみと林檎農家になる!ということ part.1

初冠雪より数日後の北アルプスは白くお化粧をしていて、真っ青な空と太陽が気持ち良い秋の日のお昼前。
私はふじ林檎の収穫が行なわれている、大町市三日町の峯村農園さんの林檎畑を訪れました。
暖かな太陽の光が目に入るもの全てを色鮮やかに照らしていて、緑が茂る林檎の木には、赤々と実る林檎が収穫を待っています。

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こんにちは。AIR MAGAZINEライターのたつみです。
大町市に林檎が伝わって、100年と13年。
いまでは大町市の農産物で米に次ぐ生産額となっている林檎。
あたりまえのように、スーパーや直売所に林檎が並び、私たちは日常的に林檎を口にしています。
今回は、北アルプス山麓地域の林檎100年のあゆみについて&林檎農家という仕事についてをテーマに、2記事にわたりお伝えしたいと思います。

林檎と苹果

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皆さんは「苹果」という字を読めるでしょうか?
これは、「へいか/ひょうか」または「りんご」と読みます。

日本の林檎は、明治以前にも地りんご/和りんご/エゾノコリンゴなどのりんごが存在していて、これらは中国を経由し渡来した小型の林檎でした。
現在食用として栽培されている林檎は明治以後、アメリカから苗木が投入され生産が始まったものです。
苹果は、中国での「りんご」を表す漢字で、古くの日本では明治政府が在来林檎と西洋林檎を区別するため

在来のりんご=林檎
西洋のりんご=苹果

と表記したそうです。
最近では「苹果」の表記はあまり見られず、私が文章で「林檎」と記載するように、在来/西洋のりんごの区別が無くなり、「林檎」は、私たちが食べている元はアメリカから持ち込まれたものを指しています。
(この後にも苹果の文字が出てくるので、苹果と林檎の違いをご理解して頂ければ幸いです)

北安曇のりんご100年のあゆみ 年表

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大町を含む北安曇(大町市/池田町/松川村)の林檎生産に係る100年の歴史を年表にまとめたので、ご覧ください。
※この年表は、大北農業協同組合/大北農協りんご生産部会発刊「北安曇のりんごのあゆみ」などを参考にし、作成しています

年号 出来事
 明治4年(1871年)  北海道開拓使次官の黒田清隆が明治政府の命を受け、アメリカから苗木七十五本を持ち帰り、勧業寮(かんぎょうりょう/農務・工務・商務の勧業を担当する官庁)試験場で試験栽培を行う
長野県/青森県などへ苗木を配布→現在の林檎のルーツ
 明治7年(1875年) 長野県の林檎栽培元年
勧業寮から林檎/なし/桃/ぶどう/杏/栗などの果樹苗木が長野県と筑摩県それぞれに配布された
→明治12年篤志家(とくしか/主に社会福祉や慈善事業に熱心な人/地元の有力者などを指すのだと推察)に苗を配布し、長野市住生地/真島村/八幡村などで栽培が始まる
筑摩県(ちくまけん)=1871年に飛騨国および信濃国中部、南部を管轄するために設置された県。現在の長野県中信地方/南信地方、岐阜県飛騨地方と中津川市の一部にあたる。1876年に信濃国が長野県に、飛騨国が岐阜県に合併されて廃止された。大町市は当時筑摩県に属していた。
 明治37年(1904年) 初めて北安曇でりんごが収穫される
 明治42年(1909年)  青森県 滋賀重昴(しがしげたか/地理学者)の講演により、大町も林檎栽培に適する気候風土であることが力説された→このことがきっかけとなり、りんご栽培の可能性を有産階級が感じることになった
 明治44年(1911年) 大町 築井玉三郎 りんご園開園
初めて栽培者が明確になり、りんご栽培が開始された
 明治末期〜大正初期(1910年代) 医師などの篤志家が原野を開墾し大規模な経営を始めた
大町 平林秀吾/常盤 清水鎮雄/平 工藤源継/腰原幸一/横澤民弥 栽培開始 
栽培技術最先端である青森県試験場の視察/青森県指導者による講習会を幾度も開催
長野県の林檎栽培技術の向上に北安曇は大貢献した
常盤に果樹/米麦試作地が設置
 大正3年(1914年) 第一次世界大戦 勃発〜18年
 大正5年(1916年) 大町 平林秀吾 2ha/常盤 清水鎮雄7ha 大規模経営を開始
築井らも面積を拡大し大正末期1925年あたりには10haの栽培面積まで広がった
 大正6年(1917年) 大町りんご組合 仁科町に設立→全国に先駆けて共同集荷/選果を始めた
翌年には名古屋の村瀬義平青果卸へ初出荷を行う/大町九日町の市に、目籠で運び販売する
 大正8年〜9年
(1919年〜1920年)
 養蚕/繭価大暴落→りんご栽培が県下に急増
大町では若林氏が一般農家で一番早くりんごを栽植する
農商務省の富永試験場長らによる講習会など当時の最高技術が投入される
昭和初期(1926年)〜 一般農家への普及は昭和初期1926年〜養蚕不況による桑園からの転換/水田減反強化が生産拡大の契機となった
 昭和5年(1930年)  昭和農業恐慌→繭価の大暴落
世界恐慌
 昭和10年(1935年)  この頃から一般農家がりんご栽培を始めるようになる
大町紡績設立
 昭和12年(1937年)  大町 大恵園(築井)/平林果樹園で動力噴霧器導入し園内に鉄管を配置
昭和14年( 1939年)   第二次世界大戦 勃発〜45年
昭和16年( 1941年)   農産物の作付統制令が交付→不急作物の禁止/食料確保の為林檎の抜根が余儀なくされ、林檎栽培が低迷
昭和22年( 1947年)  農産物の作付統制令の解除→林檎栽培の再熱
 昭和23年(1948年)  大町苹果生産組合設立
 昭和29年(1954年)  長瀬技師が着任し県下3番目の設置である王子裏共同防除(ぼうじょ/農作での病害虫などの予防と駆除)組合(固定配管)の指導にあたり、翌年には農林大臣賞を受賞
全国りんご研究大会が開催されるなど、面積200ha/生産量2,500tの全盛期であった
 昭和33年(1958年)  ふじ(東北7号)が誕生→昭和37年1962年にふじと命名                
 昭和34年(1959年)  高度成長期に突入
34年が面積のピーク263ha→昭和41年には半減し132ha
高度成長期のあおりを受け、販売競争の激化/出荷規格の厳選下/品種転換の難しさ/農薬散布の機械化などにより、資本力の乏しい農家は経営に見切りをつけたため、廃園、品目転換が進み面積は急激に減少した。
 昭和35年(1960年)  県に園芸特産課が設置され果樹係発足→果樹行政に力が入る→ふじ東北7号が初成り
果樹農業振興特別措置法発布
昭和38年(1963年)  大町市/松川村に初めてふじが導入
黒四ダム完成
 昭和39年(1964年)  常盤りんご生産組合設立
東京オリンピック
昭和41年(1966年)  大北農業協同組合発足(北安曇郡下13農協が合併)
 昭和43年(1968年)  県うまいくだもの推進事業発足
大町苹果生産組合は事務所を新築移転し(現在の中部営農センター)直売所の先駆的な事業を開始
山川市場(りんごの大暴落)→国光/紅玉の時代が終わりふじへ高接更新期へ
 昭和43年〜45年(1968年〜1970年)  スピードスプレイヤーが導入され薬剤散布も近代化が図られた
 昭和45年(1970年)  大町苹果生産組合 りんご直売所/ドライブイン併設→観光直売事業の強化
 昭和46年(1971年)  米の生産調整が始まり、りんご新植/稲作転換進む
アルペンルート全面開通
 昭和48年(1973年)  大町苹果生産組合/大北農業協同組合が合併→林檎生産販売事業合同が図られる
 昭和50年代(1975年)〜  わい化栽培の導入により生産性/品質向上に大きく貢献
早生種 津軽/中生種 千秋 などが導入
 昭和58年(1983年)  常盤/松川/池田の生産部会と統合により大北農協りんご生産部会が設立
 昭和61年(1986年)  大北農協りんご選果場が完成→大北管内のりんご共同選果開始
 昭和63年(1988年)  高根町に農産物加工センターが完成→リンゴジュース加工開始
 平成元年(1989年)  大北農業協同組合の最終的な合併統合→広域事業合同がなされた
大北農協/大町農協/大町市平農協
 平成5年(1993年)  ニュージーランド産りんご輸入解禁(グラニースミス/ロイヤルガラ/ふじ)
→平成6年りんご生産部会18人でニュージーランド/オーストラリアのりんご視察
 平成6年(1994年)  アメリカ産りんご輸入解禁(レッドデリシャス/ゴールデンデリシャス)
阪神淡路大震災/地下鉄サリン事件
 平成10年(1998年)  長野冬季オリンピック開催
 平成12年(2000年)  りんご選果場を移転(旧ボーリング跡地)
 平成16年(2004年)  北安曇にりんごが導入(収穫)されて100年を迎える
 平成17年(2005年)  北安曇のりんご100年のあゆみ 発刊

年表より注釈

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◯りんごはアメリカからやってきた
明治4年1871年
北海道開拓使次官の黒田清隆が明治政府の命を受け、アメリカから苗木七十五本を持ち帰り、勧業寮試験場で試験栽培を行いました。その苗木を長野県/青森県などへ配布したのです。

明治7年1875年
まだ長野県と筑摩県が別々だった頃、勧業寮からりんご3本/なし本/桃5本/ぶどう/杏/栗など11種類の果樹苗木がそれぞれに配布されました。

◯りんご栽培が盛んになるまで
明治初期から明治30年頃(1870年〜1900年頃)
各県内で篤志家(とくしか/主に社会福祉や慈善事業に熱心な人/地元の有力者などを指すのだと推察)や有産階級を中心に栽培が開始されましたが、経営までには至らず、観賞用程度にとどまっていました。

明治40年頃から大正5年頃(1907年〜1916年頃)
林檎経営として新規開園が盛んになったのはこの頃で、北安曇の林檎生産もこの頃から大規模化していきました。

◯りんご組合の設立/養蚕産業の衰退〜林檎栽培が一般化されるまで
 大正6年(1917年)
りんご経営を開始した先駆者達は、「りんご組合」を設立し、翌年から共同選果を始めました。(共同選果の元祖と言われている)
名古屋の青果卸に林檎の出荷/大町の九日町で直売を開始しました。

大正8年〜9年(1919年〜1920年)
第一次世界大戦終結(1918年)に伴う戦後恐慌の発生により繭価/生糸価格が大暴落し、県下で林檎栽培が急増し始めました。
大町では若林氏が一般農家では初めて林檎栽培を開始します。
一般農家への普及は昭和初期(1926年)〜で、養蚕不況による桑園からの転換/水田減反強化が生産拡大の契機となりました。

昭和5年〜昭和10年(1930年〜1935年)
世界恐慌(1930年)によるアメリカ国民の窮乏化により生糸輸出が激減したことにより、生糸価格の暴落がきっかけとなり、他の農産物も次々と価格が崩落していきました。→昭和農業恐慌
また、この年は米が豊作となり米価が下落しました。→農業恐慌本格化→農村では日本史上初といわれる「豊作飢きん」が生じる
これらのことから、一般農家が繭生産の為に蚕の餌として栽培していた桑園を、林檎畑に転用し林檎栽培が一般化していきました。

◯第二次世界大戦と作付統制〜農地解放
昭和14年〜昭和16年( 1939年〜1941年)
繭価の暴落により一般に不急した林檎栽培ですが、第二次世界大戦勃発(1939年)より食用不足となり、不急作物(ふきゅうさくもつ/急を要さない、絶対必要なわけではない作物)の栽培を禁止する「農産物の作付統制令」が交付(1941年)され、林檎栽培は低迷してしまいます。

昭和20年〜昭和22年(1945年〜1947年)
第二次世界大戦が終戦し(1945年)、農地改革(解放)が行なわれました。(1947年)
農地改革=GHQの指揮の下、日本政府は地主制度を解体(農地の所有制度の改革)したのです。
同年、「農産物の作付統制令」が解除され、林檎栽培は再度盛り上がりをみせていきました。

◯山川市場で林檎が大暴落〜ふじの誕生/観光直売強化
 昭和43年(1968年)
国光/紅玉(当時の林檎の代表品種)の価格が豊作により大暴落し、山や川に廃棄される事態が発生しました。この出来事は「山川市場」と呼ばれています。
原因として、昭和40年代前半は林檎生産量が全国で100万を超す程の最盛期を迎えたこと、みかんの生産急増/苺の増産/バナナの輸入増など、果物嗜好の変化が背景にあったとされています。
当時の林檎は酸っぱく、明治には高級なものとして扱われていましたが、栽培技術の発展により多品目の果物の需要が高まったのだと言われています。

昭和45年(1970年)〜
「長野県うまいくだもの推進事業」が開始(1968年)され、県/経団連/商協連が一体化となり、果樹振興を図りました。
需要が低迷した国光/紅玉から、新品種として開発(1960年)されたふじへの高接更新が一斉に開始され、ふじは林檎の代表品種となっていきました。
この頃から林檎の新品種が多く作られるようになりました。
また、黒部ダム建設(1963年)に伴い観光化が図られた大町市において、市場出荷が主体であった林檎の販売は、観光客向けの直売所/ドライブインなどでの地場販売へと移行していきました。

◯昭和後期〜平成の林檎のあれこれ
昭和50年代(1975年)〜
わい化栽培(接ぎ木した穂木の成長を押さえる性質を持ったわい性台木を利用する栽培法)の導入により生産性/品質向上に大きく貢献しました。

昭和60年代(1986年〜)
大北農協りんご選果場が完成(1986年)し、大北管内のりんごの共同選果が開始されました。
農産物加工センターが完成(1988年)し、リンゴジュースの加工が開始されました。林檎の加工は長野県内では先駆けの取り組みでした。

平成元年(1989年)
大北農協/大町農協/大町市平農協が合併し、現在の大北農業協同組合となり、広域事業合同がなされました。

平成16年(2004年)
北安曇にりんごが導入(収穫)されて100年を迎えました。

次回へ続く!!

今回のレポートはここまで。
今回は、北アルプス山麓地域の林檎100年のあゆみについてをお伝えいたしました。
この100年を辿ると、いかに日本の農業が歴史に左右されてきたのか!ということが伺えますね。
人々の物作りの精神と努力が、いま私たちが当たり前に口にすることのできる林檎を生み出したのだ。と、知ることができました。

次回は、取材をさせていただいた大町市三日町の3代目林檎農家の峯村氏のお話を中心に、林檎農家という仕事についてをレポートいたします。
どうぞ、以下リンクよりおすすみください。

>>後半のpart.2記事はこちらから<<

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