オハツキイチョウと紅葉の霊松寺‖廃仏毀釈の歴史を探る part.1
「子宝に恵まれたと、毎年何組かは喜んで報告しに来てくれる人がいるんですよ。」
霊松寺の伊藤住職(66歳)は、にこにこと微笑みながらそう話してくれました。
山門前に大きく枝を広げる、黄色く色づく大きなイチョウ。
そのイチョウの木は「オハツキイチョウ」という日本でも20本に満たない程しか確認されていない珍しいイチョウで、その実である銀杏には、稀に葉が付いていることがるらしく、その葉のついた銀杏には「子宝に恵まれる」と言うご利益のある言い伝えがあるのだそうです。
こんにちは。AIR MAGAZINEライターのたつみです。
今回は、大町の紅葉スポット&オハツキイチョウで有名な霊松寺さんについてを、2記事にわたりレポートいたします。
前半編は霊松寺の歴史や施設などを中心にレポート致します。
大町市の紅葉!と言えば、「霊松寺-reishouji-」
と、地元の方が口にするように、紅葉の時期(10月下旬〜11月中旬頃)になるとこの霊松寺にはたくさんの方が、その赤と黄色に燃える絶景を楽しみに参拝に訪れます。
この「子宝に恵まれる」とご利益のある言い伝えがあるオハツキイチョウや、ドウダンツツジ、その他に紅葉する木々に囲まれた霊松寺は、私も秋になると友人を連れてよく足を運んでおります。
今回の取材を通して、これまで知ることのなかった地域の中の身近な場所で起こった様々な歴史を知ることができました。
長い文章となりますが、どうぞお付き合いいだければ幸いです。
1404年建立!長野県最古の曹洞宗寺院 霊松寺
大町市街から見える北アルプスの反対側の東の山の中に、長野県最古の曹洞宗寺院である霊松寺は堂々と佇んでおります。
霊松寺が建立されたのは1404年。
大町市はかつて「信濃仁科郷」と呼ばれており、この「仁科」は大町を納めた領主である仁科氏の名で、現在もいたるところにこの仁科の名が名称として残っております。
◯霊松寺建立までの簡単な歴史
1052年 平清長が領地を納め、この時初めて「仁科」を名乗ります。
木崎湖半に森城(別名:仁科城)を築き一帯を統治。
1185年〜鎌倉時代が始まり、この時期から仁科氏は現大町市街地北部にある天正寺の館に移り、現市街地の原型となる市場町を形成しました。この際に京の文化を取り入れた町づくりがすすめられ、市街地は碁盤目の様な縦横に道が敷かれました。
1221年 仁科盛遠(もりとお/若一王子神社を建立した人物)は承久の乱において朝廷方に付き、北陸道に派遣されて越中国砺波(富山県)にて戦死してしまいます。
1353年 鎌倉幕府滅亡後、伊勢国の関氏より養子を取り、仁科盛忠が仁科郷領主となります。
1404年 仁科盛遠の菩提を弔う為、仁科盛忠が霊松寺を建立しました。今から600年以上も前のことです。
霊松寺に関する歴史については
>>霊松寺HP内 霊松寺の歴史 をご参照ください
◯建立後の霊松寺
・仁科家の滅亡
その後戦国時代に入り、1561年には仁科盛忠の末裔である盛政は武田信玄に撃たれ、切腹を命じられました。仁科家はここで亡びますが、信玄は五男盛信に仁科家の跡目を継がせ(仁科氏の人気が高く仁科家の名を残すこととなったと伝えれている)仁科郷を統治させました。
仁科盛信は、1582年に織田信長の弟、織田信忠に高遠(長野県伊那市)にて滅ぼされてしまいます。
ここに、500年間続いた仁科家の歴史は幕を閉じ、同時に霊松寺も寺禄(じろく/寺院に給付された俸給)を失い寺院維持に困窮することとなってしまいました。
・善光寺地震により倒壊炎上
困窮が続く中、1647年には徳川家光より寺領(じりょう/寺の領地)十石を寄進され再興の道が開けます。それから200年後、1847年に起こった善光寺地震(震源地飯山付近と推定/強振動による家屋の崩壊や崩落、地面の隆起が起こった/犀川で生じた洪水で新潟県の信濃川流域でも大きな被害をもたらした)により本堂/庫裡(くり/お坊さんの暮らす建物)が倒壊炎上してしまいました。
庫裡は直ぐに再建を開始、本堂は1883年に再建となりました。
写真で見る霊松寺
・境内
上にも書いたように、大町の紅葉スポットである霊松寺は、10月半ば〜11月半ば頃に敷地全体が赤や黄に、文字通り「燃える」ように色づきます。
敷地内のあちこちに赤く色づくドウダンツツジがこれはこれは見事で、鐘楼の周囲はこのツツジの赤色が迎えてくれます。
鐘楼を見上げるように駐車場があり、そこから少し下ると立派な山門と、その山門にかかるようにオハツキイチョウが色づきます。
山門の向こう側には巨大な本堂と庫裡が横続きに鎮座しています。
・オハツキイチョウ
全国でも20本程度しか確認されていない珍しいイチョウで、実となる銀杏は稀に葉とくっついて落ちているそうです。
大町市天然記念物に指定されており、子宝に恵まれる!との言い伝えから、女性やご夫婦がこのようにしゃがんでお葉付きの銀杏を探している光景が見受けられます。
イチョウの木は恐竜時代からあったらしく、燃えにくくとても強い木なのだそうです。
オハツキイチョウは、現在のイチョウの木が退化した形で、ごく稀に自然現象の影響により出来るとされています。
ご利益をあやかりに、紅葉の時期になるとお葉付きの銀杏を探しに足を運んでもいいかもしれないですね。
・鐘楼
建立600年記念事業として新築された鐘楼は総ケヤキ造り。
鐘の直径120㎝/重さ2.5tの長野県下一の鐘楼です。
この鐘楼の前が駐車場となっていて、霊松寺に足を運ぶと真っ先にこの大きな鐘楼が目に入ります。
鐘をつくことが出来るので、多くの方が「ドーン」と鐘をついています。
写真と反対川には北アルプスが広がり、鐘をつくととても爽快な気分になります!
鐘楼を下ったところには本堂があります。
・山門
1878年明治初年に廃寺となった松川村の観勝院山門を移築されました。
存在感がとてつもなく、彫刻がとても立派な山門です。
1993年に長野県指定有形文化財(県宝)にされました。
・庫裡
1847年に起こった善光寺地震により倒壊炎上し、その後再建された。
間口10間(18m)/奥行き20間(36m)というとてつもなく大きな建物で、細かり梁の造りが素晴らしいです。
庫裡の端から端(約18m)を一本の杉が横たわりその大きな建物を支えていて、圧巻の光景です。
・本堂
庫裡と同じく善光寺により倒壊炎上し、1883年に再建されました。
間口12間半(22.5m)/奥行13間半(24.3m)
本尊は釈迦三尊(左:文殊菩薩/中央:お釈迦様/右:普賢菩薩)
・本堂天井の鳴き龍
本堂の天井を見上げると、焼き板で描かれた大きな龍が睨みつけています。
写真では全景を納められず。。巨大です。
本堂再建の際に、再び火災が起こらないようにと願いが込められ龍が描かれたそうです。
龍の目の下で手を鳴らすと、音が反響し鳴き声のような音が聞こえます。
-霊松寺の現住職は34代目!
今回の取材にご協力いただいたのは、霊松寺34代目の伊藤泰顕-Ito Taiken-住職。
霊松寺の歴史や紅葉のこと、宗教のことなどなど、様々なお話を伺わせていただきました。
住職は大町市の生まれで、20代半ばの頃(40年程前)に大町に戻り出家され、30年程前に先代のお爺様からお寺を継いだのだそうです。
実家がお寺!というのはなかなか想像ができないことですね。
紅葉が美しい境内は、先代と共に植樹や手入れをしたのだとか。
住職はたくさんの方々を招き入れており、写真展やコンサートの企画をされるなどのユニークでとても社交的な方でした。
今回の取材も快く引き受けてくださり、勉強不足の私にたくさんのお話をしてくださり、本堂〜庫裡をご案内してくださりました。
取材の日はたまたま市内の小学生がお寺の学習見学をしに来ていたり。
本堂は作品展のギャラリーとなっていたり。
たくさんの方が霊松寺に足を運んでおりました。
こうしてお寺に人が集まるのは紅葉だけでなく、住職の人柄も関係しているのだと感じました。
そして、住職から「廃仏毀釈」についてのお話を伺うこととなり、この霊松寺が34代目まで続いているのは、過去の仏教廃止運動と戦った先代の努力の賜物である。ということを教えていただきました。
次回へ続く!!
今回のレポートはここまで。
霊松寺の歴史を中心にお伝えさせていただきました。
次回は、廃仏毀釈についてと、仏教廃止運動と戦った30代目住職安達氏についてをレポート致します。
どうぞ、以下リンクよりおすすみください。
>>後半ののpart.2記事はこちらから<<
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たつみかずき
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