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おおまちストーリー #03

※こちらは、北アルプス国際芸術祭2021のアーカイブ投稿となります。

大町に住む「土の人」へ
大町に訪れた「風の人」が訊く
大町ならではのプリミティブな物語

地元に住み続けその土地に詳しい人を
「土の人」と呼び、
旅行者や移住者などを
「風の人」と呼ぶことがあります。
「風の人」は「土の人」から大町を知り、
「土の人」は「風の人」から
大町の魅力を再発見します。
二つの異なる性質が混ざり合い
共鳴し合うとき 「風土」のようなもの
=「おおまちストーリー」
が生まれるのです。
 
聞き手:稲澤そし恵(風の人)

注目のアートサイト 「旧北高」の思い出
〜移ろいゆく商店街を見つめて〜

お話してくれた「土の人」

倉科瑠美子(くらしな るみこ)さん

元長野県大町北高等学校同窓会会長(平成13年~平成22年)。
大町市美麻生まれ、83 歳。
創業明治23年「(有)倉科製粉所」の役員。
目下の楽しみは、生まれたばかりの曽孫 (孫の子)の成長を見守ること。

北アルプス国際芸術祭で最多の作品が集まる「市街地エリア」。JR大糸線信濃大町駅から北に延びる商店街を中心としたエリアで、駅から歩いてアート巡りができるのが特徴です。
今回注目すべき場所は、旧長野県大町北高等学校(以下、北高)。2016年に廃校になった高校がアートサ イトとしてよみがえります。校舎の再利用について人一倍楽しみにしているという、同校卒業生の倉科瑠 美子さんに、さまざまな想いを語っていただきました。


ー 倉科さんは昭和31年のご卒業とのことですが、北高の思い出をお話しください
私は昭和12年(1937)美麻村(町村合併により、現在は大町市)新行の生まれです。水車小屋があって、春には福寿草の咲くそばの里です。小さな頃はまだ(地名の由来になった)麻を栽培していました。北高は明治45年に創立し、この地の女子教育の中心的な存在でした。私の母と姉3人も卒業生です。私が通っていた美麻南中学から北高に進学したのは私だけだったので、新しい世界が始まったようでした。校舎2階西側の廊下の窓から校庭の白樺や蓮華岳、爺ヶ岳、鹿島槍ヶ岳の連なりが一望できて、お気に入りのスポットでした。今も大好きな眺めですね。
高校へは大町と長野を結ぶ路線バスで通学していました。他の生徒や先生方は小谷、白馬方面からは汽車 で、松本方面からは電車で、信濃大町駅で下車し学校へ本通りをずーっとみんなで行進したものです。 冬はバスが止まってしまうので、学校の近くに部屋を間借りしてました。四斗樽(1斗は約18リットル) にたくあんと野沢菜漬けを母が用意してくれてね、当時めずらしかった石油コンロを使って自炊したこともありますよ。
まぁ、楽しかったわよ高校はもう本当に。部活や文化祭や運動会、木崎湖清遊といったイベントを楽しんだり、学校前のお店でコッペパンを買い食いしたり。高校3年間は青春そのものでしたね。卒業した後は県職員として北高の事務室に勤めました。

ー「石臼挽きそば粉」で有名な倉科製粉所に嫁がれて、どんな暮らしをしていましたか
3年間母校に勤めた後、縁あって北高から徒歩3分の所にあるこの家に嫁ぎました。この辺は(雪が少ない地域に嫁がせたい親心から)「嫁に出すならちょっとでも南に転べ」って言うんですけど、美麻から大町だからほんのちょっとしか転べなかった(笑)でもここにお嫁に来るとは知らずにこんな近くの高校で青春を過ごしていたのだから、面白い巡り合わせだと思います。
我が家の記録によると、江戸末期にここに住み始め若一王子神社横から流れてくる川に水車を据えて、石臼を回して米粉、きな粉、そば粉などを挽いたのが製粉業の始まりだそうです。大正時代に電動になるまで水の力で製粉していました。当時は田んぼも日常生活も、まさに水の力で成り立っていました。北アルプスから流れてくる湧き水っていうものは、無料だと思われがちだけど本当に大切なものですよね。この水があるからそばもおいしく食べられるのよね。
大町の商店街が長いのは、中世の仁科氏のかんがい事業によって若一王子神社から水分(みくまり)された町川(現在は大部分が地中に埋設されている)に沿って作られたからと聞きました。市街地の至る所に、もちろん我が家の敷地にも小川があります。昔はどこの家でも必ず、川に降りる所があって生活用水として使っていました。「三尺流れれば水清し」という言葉も聞いたことがあります。下水道が完備されてから川の流れはきれいになり、上流に住むものとしてはうれしいことです。
私どもの仕事は市内外のおそば屋さんに、そば粉を提供すること。原料の確保をはじめ、お得意さんの細かなご要望に沿って製造しています。ほとんどが業務用ですが、店舗ではそば粉や打粉、小麦粉などを販売してます。公民館などでの手打ちそばの講習会や趣味のサークル、自宅でそば打ちをされる方など遠方 からも注文をいただいて「おらがそば」を楽しんでもらっています。

ー 昭和30年代のダム建設ラッシュで、大町の商店街は大変にぎわったそうですね
私が高校を卒業して母校に勤めだした昭和31年、北高の近くにくろよん(黒部ダム)工事の仮事務所ができました。それで北高のグラウンドがヘリポートになり、ヘリコプターが離発着していました。運よく乗せていただけて、木崎湖の方まで一周したこともありましたよ。ダム建設とバブルの影響で当時は大町市の人口が4万人近くいて、街中が活気に満ちていました。
商店街は今よりもっとお店があって、いまや魚屋さんと八百屋さんは見事に少なくなってしまいましたね。大黒町(地名)だけで魚屋が三つあったんですよ。夕方になると買い物かご持ってサッと出かけて、 新聞にちゃちゃっと秋刀魚なんか包んでもらってね。……家の近所にいろんなお店があったから、パッと買って帰ってこられたのね。今はすべてスーパー頼み。車が運転できない私みたいな人には不自由なことですね。

ー 生徒として、職員として、同窓会会長として、長年北高に関わり続けてきた倉科さん。廃校についてはどうお考えでしたか
結婚してから、子育てや仕事で余裕がなくて、しばらくは同窓会もご無沙汰しておりました。でも先輩から声をかけられて、3年在学して3年勤めさせてもらって人の倍お世話になりましたから、お役に立ちたいと参加するようになりました。90周年の前年から5期10年同窓会の会長を務めました。90周年記念の後、 間もなく県教育委員会で県立高校の再編計画が検討されて。教育委員会や学校関係者、両校の同窓会、 PTAなどの皆さんと、地域としてどのように対応していくか会議を重ねました。生徒数減という現実を踏まえて、最後にはいつまでも廃校反対と言っても先に進まないから、統合して作る新しい高校(現・長野県大町岳陽高等学校)はより良い施設にして環境を整えて欲しい、と卒業生としては意見させていただきましたよ。時の流れとはいえ残念ですが、この地がより良い方向に向かわなければなりませんしね。

ー そんな北高が芸術祭で再び注目されることになりました。倉科さんにとっ て、芸術祭はどんな存在ですか
アート鑑賞は楽しいです。前回(2017)の芸術祭の作品はほとんど見ました。心笑館の作品(ダムエリアの 『龍の棲家』)や宮の森自然園の(源流エリアの『Trieb-雨為る森―』)が印象に残っています。夫と車で行って見ましたよ。楕円の作品(東山エリアの『集落のための楕円』)は面白く、とても感心しました。
今回の芸術祭に北高を使っていただけるのは本当にうれしいです!これをきっかけに同窓生の皆さんが懐かしく思って出かけてくださればうれしいですね。町内のポケットパーク横の土蔵も会場になるとのことで(写真家の本郷毅史さんの作品予定)、楽しみです。
またコロナ禍前の昨年の1月に今回参加されるポウラ・ニチョ・クメズさんという、グアテマラの作家さんにお会いしました。作品を展示する予定の北高について知りたいということで、私がお話しさせていただきました。作品のイメージを膨らますお手伝いができたならうれしいですね。とにかく彼女は初海外で、 もちろん日本へ来たのも初めてなんですって!そして初めてお箸でおそばを召し上がったとのこと。現代アートというと、なんというかギラギラした感じの方が多いのかと思っていたら、全然そういう感じじゃなかった。優しい大らかなおばあちゃんって感じで。どんな作品に出会えるか、今からわくわくしていま す。そうそう、ポウラさんのお国のグアテマラのコーヒーに、堀六日町(地名)の「ユナイトコーヒー」 で出合ったので、おいしく楽しんでいますよ。
それから今回は(俳優で演出家の)串田和美さんが参加されるそうで、楽しみです。あの方のお父さんは 有名な詩人の串田孫一さんで、私が勤めているときに北高へ講演にいらしたことがあって、本にサインし ていただいたことがあるんです。最近になって、親子さんだと知りましたよ。

ー大町を訪れる人におすすめする大町のおいしいものを教えてください
自信を持っておすすめできるものがたくさんあります!一番はやっぱりおそばで、大町市内のお店のおそばはそれぞれ本当においしいです。それから大町には菓子店が多いので、お茶のおともなら喜久龍さんの栗が丸ごと入った「栗一つぶ」、柴田さんの「塩の道」というちょっと塩味のきいたようかんがおいしいですよ。ケーキなら藤長さんや立田屋さんが好きです。田中屋さんの「雷鳥の里」はおいしくて日持ちがよく、有名でお土産にぴったりですよ。おやきやリンゴもぜひ召し上がっていただきたいです。いーずら大町特産館にいろいろそろっているので、立ち寄ってみて欲しいですね。

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